2019年03月03日

ギデンズの社会理論-その全体像と可能性(宮本孝二)

 春休みは、思想・理論系の人文科学の知識を強化しようと思い、本を読んでおります。この本は桃山学院大学教授の宮本孝二さんが大阪大学人間科学研究科に博士論文として提出したものを書籍化したものであります。
 理論社会学の専門書ではありますが、ギデンズ理論の全体像を把握するために読みました。年代ごとにギデンズの社会理論を取りまとめ、最後にその理論の可能性を考察するという構成です。初学者の私には少し取っつきづらいところもありましたが、ギデンズの論考の大枠が把握できたと思います。
 ギデンズの理論の中心となるのは、「構造化理論」というものです。これは、主観主義的な理解社会学と構造主義的なパーソンズらの理論両者を批判し、それらを止揚するような形で唱えられたものであります。社会学史において、社会構造が人間行動を支配するか、人間行動が社会を形作るか、といった論争があったのですが、ギデンズは両者を一面的であると批判し、マルクス主義的な発想(利害、コンフリクト、パワーなど)を取り入れて「構造化理論」を唱えたのです。すなわち、構造が行為の条件となり、また同時にその帰結でもあるというものであります。
 また、ギデンズは「パワー」という概念を提示しております。パワーとは物的、精神的な資源(それには、時間や空間も含みます)を動員し、意思を実現/現実を変革する能力のことであります。すなわち、行為を行う際の能力であります。
 構造が変われば、パワーに必要な資源が変わって行う行為に変化が生じ、かつ、主体がなんらかの行為をなせば、ミクロの、ひいてはマクロな構造の変化をもたらすという仕組みであります。

 ギデンズ理論で面白いのは、やはりモダニティの話。「脱埋め込み」という議論はあまりにも有名ですが、恥ずかしながら初めてその理論の詳細を知りました。本書に引き続き、ギデンズ本人の『近代とはいかなる時代か?』を読んでいるので、脱埋め込みについてはそちらを読了した際にでも少し紹介したいと思います。

 また、ギデンズはマクロな社会理論のイメージが強いですが、ミクロな人間関係についても論考を発表しています。それは、近代における愛は、ロマンティックラブから「純粋な関係」でつながるコンフルエント(=流動的な)ラブに変化するというもの。近代に入って恋愛・性行為・結婚が一つながりのものとみなすロマンティックラブイデオロギーが支配的でありましたが、現代女性の自律化が進むと同時に避妊技術/生殖工学が発達し、三者が再び分解していきます。このような社会においては、人と人とのつながりは、純粋な互いの感情のみになり、流動的になるというシステムであります。
 現実には変化は一様ではなく、前近代の地縁・血縁に従属した結婚も残存していればロマンティクラブイデオロギーはまだまだ力を持っていますが、ギデンズのこの理論は、実感を持って理解することができます。
 
 社会学は、自分の普段考えているような、社会の分析を、極めて精緻な理論で説明してくれます。自分で何か、うまいこと思いついた!と思っても、高名な人がすでに概念化していたりすることがたくさんあって、少し悔しいような感じもしますが、とても面白いです。
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2019年02月27日

崇高の美学(桑島秀樹)

 なぜだか、春休みは思想系の本ばかり読んでおります。登山家として、山岳美学を巡ってよく取り上げられる「崇高」の概念を詳しく知りたくて手に取りました。
 この本の著者の桑島秀樹さんは阪大文学部美学科の出身で、現在は広大の総合科学部の教授をされている方。バークや崇高美学を巡る研究で功績を残されているそうです。
「崇高」とは、バークにより一つの美的カテゴリーとして定位され、カントによって厳格に体系化された概念で、苦・恐怖の中に沈潜していくうちに(カントにおいては、自らの「理性」を見出し、)反転的に創出される快の形であります。
 例えば、アルプスの山脈を訪れ、その圧倒的な量感を感じ、押しつぶされそうな、恐怖に打ち震えながらも、そこから感じられる、ある種の快。あるいは、石や岩、さらに現代においては鉄やアルミのような、無機物やそれで作られた人工物を見たときに感じられる、生への拒否感の恐怖、気味悪さの中から感じられる快。

 一番面白かったのが、3章「山と大地の崇高『崇高』 カントの人倫的崇高を迂回する道」における、崇高と「地」の結びつき。筆者はアルプスの山岳風景画などを描いたターナーを分析するラスキンの理論(地質学的視線)を通じて、崇高が「天」ではなく、「地」と深く結びついていおり、さらに日本の登山文化をめぐって、沢登りや藪漕ぎをピークハンティングと対置して「地」に沈潜する「崇高」を求める行為であると述べております。
 一般的に「天」をイメージするアルプスなどについても、ジンメルやラスキン、ターナーは、その著述、作品において大地に注目しているのです。

 私自身、沢登りや藪漕ぎをしておりますので、それらの崇高性は直感的に納得できます。しかし、作中で述べられていた冠松次郎や川崎精雄の感性とは、少し異なるような気もします。彼らは、地に沈潜する際、陶酔的で、自然の生の中に融解していくような美を述べていますが、私は彼らより臆病なのか、とりわけ沢登りをしていると、一歩踏み間違えば、集中力を切らせば死の世界へと転落していくのに恐怖を感じます。そこにあるのは、むしろラスキン=ターナー的な、あるいは、カント的な、苦や死の中に見出す快、「崇高」と言っても良いと思います。
 滝や岩の登攀。岩の割れ目を、凹凸を探り、つかみ、慎重に体を上げていく。あるいは、巻き(突破できない滝などを避ける行為)。どろどろの斜面に手を、足を突っ込み、木の根をつかみ、手足に精神を集中させ、這い上がっていく。
 体の、心の全てで、大地と、そして、自らの理性と、本能と、対話しているように思えます。

 他分野の本で、どうしても前提知識が不足しているため、理解が浅薄にとどまっているのは否定できませんが、「美学」という分野が、哲学の中でも実感を持って理解できる面が強いこともあり、楽しく読むことができました。他分野の、全然違う論理構成を知るのも興味深いし、良い勉強になりました。
posted by みさと at 12:57| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(他人文科学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月25日

社会学理論のエッセンス(多田治)

 一橋大学の多田治さん著、デュルケム、ウェーバーからサイード、ライアンに至るまで、社会学の主要な理論研究を歴史に沿って概説した本です。平易な文体で140頁ほどにまとめられております。
 名前だけ知っている、という有名社会学者たちの言っていたことがざっくり理解できて、今後本を読んでいくときの基礎知識になりそうに思いました。

 最近とみに意識していた「集合的なものとして把握された集団の諸信念、諸傾向、諸慣行」について、デュルケムが「社会的事実」と名付けていたり、社会階層の再生産について「ハビトゥス」「界」「資本」をキーワードにして、わかりやすく整理していたり。自分の普段考えていることは過去の偉人たちがすでに高度に理論化している(しかも、それが基本的な学術的前提になっている!)ことを思い、巨人の肩に立たねば、新しいことを創造するのは難しいのだな、と痛感しました。人生をもっと深く考えるためにも、社会学はもっと勉強しよう…!

 各思想家ごとに参考文献もありますし、理論社会学初めの手引きにふさわしい一冊でした。
posted by みさと at 21:15| 奈良 | Comment(0) | 読書(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月08日

村落からみた市街地形成 人と土地・水の関係史 尼崎1925ー73年(沼尻晃伸)

 沼尻晃伸さんの尼崎関連の一連の研究論文をまとめ、加筆の入った本です。沼尻さんは立教大の社会経済史の先生です。
 図書館でふらふらしてたら見かけて、自分の関心にかなり近いものであったため、テストを控えていましたが、迷わず借りました。
 旧農村の郊外住宅地を論ずる、珍しい論文。旧農村の郊外住宅地はその数の多いにも関わらず、都市研究や農村研究の時代的・空間的末端として扱われ、あまり主題に据えられることが少ない印象があります。

 舞台となるのは尼崎市の橘と浜田。それぞれ土地区画整理がなされた年代が異なり、時期や諸条件の差異を通じた比較研究が行われています。
 土地台帳や農地委員会議事録などの行政資料を用いる一方で、地主の手記や自作農の日記も取り入れています。住民がどのような意図・意識を持って土地とかかわり、市街地形成に影響を与えてきたのか。行政や大都市を中心に据えて行う研究は多くありますが、このようなミクロな視点からの研究は珍しく、価値あるものだと思います。
 私も、この論文のような、農村から見た郊外住宅地開発が自分の中のテーマの一つとして存在しています。名所の認識史もやりたいので、卒論のテーマにするかは微妙ですが、地元・柏原でこれに近い研究をしてみたい気もします。柏原は尼崎と違って、土地区画整理がなされておらず(それゆえ史料も少なそうですが)、また立地条件もかなり異なるところもあり、また違ったことが見えてくる気がします。実家の日記や小作・借地関係史料も使えたら、史料的な独自性もありますし、いつかは挑戦してみたいです。

 私は都市史・建築史の研究室に分属になり、卒業論文にのぞむことになるのですが、ここまで歴史学的な勉強をあまりしていないことが、少し悔やまれます。地理学や建築関係の勉強に時間を費やしてきたのは決して無駄ではないでしょうし、研究に役立つとは思うのですが。。。
 経済史・農史・都市史など、他分野から歴史的研究をする学者の方々は、どのように学部生時代勉強をしていたのか、気になるところであります。
posted by みさと at 09:44| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(政治学/経済学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月04日

いけばな 花の話を聞くとき(熊野寿哉)

 小原流の華道家・熊野寿哉さんのエッセイです。
 私は専門で空間論を勉強しているのですが、庭園を巡ったり授業で広場の計画を考えたりするうちに、空間の美、特に植物によって構成される空間の美について、もっと深く考え、感じてみたいと思うようになりました。華道は、空間の美の実践の一つの形、様式であります。そんなわけで華道を習いたいという思いが募ってきているさなかであります。
 それで図書館で手にとったのが、この本。蔵書の多い京大付属図書館においてもあんまり華道にまつわる本はなく、数少ないうちで一番入門書に近そうな本がこれでありました。
 はじめに生け方の様式が短くまとめられていて、それに続いて植物ごとの、いけばなの写真とエッセイがついているという構成。日本語と英語が併記されています。
 この本を読むだけで、華道の様式や作法の一通りがわかるわけではなく、入門書というよりも、あくまで軽い読み物といった感じです。それでも、華道の美の魅力はよく伝わってきますし、エッセイも文学的に素晴らしいというわけではありませんが、すっと入ってきて読みやすく心地よい。読んでいて華道への思いは高まってくる本でした。
posted by みさと at 13:31| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月01日

卍(谷崎潤一郎)

 谷崎潤一郎の小説です。二人の女性の同性愛を中心に展開する卍がらみの人間関係をえがいた作品。一人称の女性が作者に語りかけるという形式で、訴えかけるような迫力があります。関西弁の一人称というのはなかなか珍しく、地の文にも使われている関西弁は、関西人の私にとっても、少し取っつきづらい感じがありますが、いざ作品に入り込むと抜け出せず、臨場感を高める役割を大いに果たしていると思います。
 この作品の一番の見所は、やはり登場人物たちの情動の描き方。ものすごく濃密で、複雑で、たくさんの感情が堆積し、撹乱され、圧縮された感じ。触るとドロッと糸を引きそうな。そのような激情を感じたことのない私にとって、読んでいて混乱するような、恥ずかしくなるような、不思議な感覚を覚えました。
 手紙の引用を持ち出すのも、かなり効果的に作品を盛り上げています。一定の長さの内容を持ち得て、かつ感情をそのまま吐露できるというのは、会話文や地の文の描写にできない手紙ならではの特色だと思います。
 終盤の光子の描かれ方は、『痴人の愛』のナオミと共通するところがあります。破滅的な、奔放な女性にあらゆるものをぐちゃぐちゃにされるというものが谷崎の理想美の一つなのかもしれません。
 作品の展開ごとに複雑に絡み合っていく人間関係、肉体関係、情動。「卍」というタイトルはミステリアスでありながら、それをよく表していて、この作品のえも言われぬ雰囲気をよく形成していると思います。
 そういえば、最近の若者言葉で「マジ卍」というものがあるのですが、それもこの作品を読みながら呟くのにぴったりの言葉だな〜、なんて、しょうもないことを考えたり。
posted by みさと at 16:25| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月22日

人でなしの恋(江戸川乱歩)

 創元推理文庫、江戸川乱歩の短編集です。収録作品は『百面相役者』『一人二役』『疑惑』『接吻』『踊る一寸法師』『覆面の舞踏者』『灰神楽』『モノグラム』『人でなしの恋』『木馬は廻る』です。小学生か中学生の頃に読んだものですが、久しぶりに読みました。
 小学校高学年の頃、2004年放映の特撮ドラマ「ウルトラQ dark fantasy」を父親と一緒にDVDで見てかなり衝撃を受けたのですが、そのうちの一話「ヒトガタ」が、江戸川乱歩『人でなしの恋』が原案だと聞き、書店で購入したのがこの本。少年探偵シリーズにハマってほぼ全作を読破し、それ以外にもポツポツと手を出し始めていた頃でした。


 最も気に入ったのはやはり表題作『人でなしの恋』。陰気で冷たい蔵での、艶美な古人形との密会。
「その花やかな、情欲的な顔が、時代のために幾ぶん色が褪せて、唇のほかは妙に青ざめ、手垢がついたものか、滑らかな肌がヌメヌメと汗ばんで、それゆえに、一そう悩ましく、艶めかしく見えるのでございます」(p210)
 人ならぬ者には、人には決してない、怪しげな魅力が宿ります。とりわけ人形というものは、人に似ているがゆえに、そして、人の寿命を超えてもいつまでも若々しく、しかし、長い年月の間に幾人もの人の愛の降り積もり、微妙な古びかたをするのですから、なおさらです。
 人形が愛する者が自ら流した血潮にまみれ、腕の中で恋敵たる主人公を笑っているという結末の描写には、慄然とするものがあります。乱歩の中でも名作に数えて良い作品だと思います。

『踊る一寸法師』もお気に入りです。サーカスに属する、子どもの体を持った30男。酒宴の席で仲間たちに嬲られる中、復讐を行うというお話。小人症と思われる人物を扱っており、現代ならば人権問題となりそうな主題をしておりますが、サーカスという非日常空間も相まって、作品の怪奇性・猟奇性を際立たせております。サーカスの手品と見せかけて本当に玉乗り女を殺し、踊りながら首に何度も何度も食いつくという結末。筋はシンプルながらも、身の毛のよだつ恐怖と魅力があります。

『疑惑』はフロイトを援用したカラクリを使ったミステリ。以前読んだ時から十年近く。少しばかり精神分析学という学問に触れたこともあり、この作品の持つ意義が自分の中で変わった気がします。そうややこしくないシンプルなものですが、なかなか面白かったです。

 『木馬は廻る』の物悲しいお話も、『モノグラム』の少し心ときめくお話も、『一人二役』の微笑ましいお話も、それぞれよかった。ミステリ色の強いものもあれば、怪奇色の強いものまで多様な作品が収録されています。どちらかといえば地味な小品ばかりですが、乱歩の世界を存分に楽しめる作品集だったと思います。
posted by みさと at 14:56| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(ミステリ系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月18日

痴人の愛(谷崎潤一郎)

 谷崎潤一郎『痴人の愛』を読みました。
 主人公・河合譲治はカフェエの給仕を務めていた少女・ナオミを引き取り、自分の思い通りの女性に育つよう養育するが、ナオミは譲治の管理を超えて奔放に、淫蕩に育ってゆく、というお話。
 よく聞く分析として、この作品における譲治とナオミは、西欧近代に屈服する日本というメタファーになっているというものがあります。谷崎は、日本が二次大戦で敗戦したとき、「日本の男が、巨大な乳房と巨大な尻を持った白人の女に敗れた、という喜ばしい官能的構図」(三島由紀夫の評)で世界を認識していたのではないか、と言われています。そのことを踏まえれば、『痴人の愛』は、西欧への憧憬・女性へのマゾヒズムという谷崎の精神がよく結晶したものだと言えます。
 また、この作品は大正末期の風俗を描いた作品としても秀逸だと思います。譲治は宇都宮の豪農の出でかなりの月謝をもらうサラリーマン。ナオミは東京の比較的貧困層の生まれで、多少水商売的な意味合いを持っていたカフェエの女給。そうした格差を背景に、物語中盤以降は二人の派手な生活を通して、東京の新中間層のハイカラな社交社会が描かれています。こうした舞台背景は、西欧人的な特徴をもち、譲治が西欧人らしく仕立て上げようとしている近代女性たるナオミの特徴をうまく際立たせています。

 終盤に強調されるように、ナオミは、彼女が悪い女であるからゆえにこれほどまで美しく存在します。
「疑いもなくそれは『邪悪の化身』であって、そして同時に、彼女の体と魂とが持つ悉くの美が、最高潮の形に於いて発揚された姿なのです」(新潮文庫・p278)
 譲治がナオミを追い出す際、憎しみ、憎しむ中でこれまでにない妖艶さ、凄まじい美しさを見出すというシーンです。この美学、何か本能的にわかる気がします。美と恐怖の感覚って、どこか似ている。ゾッとする、という言葉を、美しいものにも、恐ろしいものにも使うように。それがなぜなのか今うまく説明できませんが、この感覚の蠱惑は本当によくわかります。

 この物語はナオミに屈服して終わりますが、その結末は破滅的なものではありません。合資会社を作って収入も確保でき、ナオミを占有はできないまでも、その側にいることはできている。恐ろしく、憎しみながらも恋い焦がれ、服従するることに快感を覚えている。物語のの語り口は、自虐的でありながらも、どこか幸せそうな色が滲んでいます。

 世間でこの小説は官能小説の代表格みたいに、揶揄的に扱われることが多いですが、綿密に紡がれて世界観に、くどくなりすぎない、さらっとした、しかし、感情をよく伝える文体。谷崎の銘作に恥じない優れた作品だと思います。
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2019年01月14日

桜の文学史(小川和佑)

 小川和佑さんの本です。古代から現代に至るまで、文学作品を紐解きながら、桜の受容の歴史を探るという内容です。
 小川さんは詩人・高校教諭から近代文学の研究者でかつ文芸評論家に転向された方。この文章も、学問書のようでもあり、評論のようでもあります。

 桜というと、何を想像するでしょうか。賑やかなお花見? 可憐な女身の象徴? 梶井のような死の桜? あるいは、武道における滅びの美学? 思えば、私たちは桜に本当に様々なイメージを与えています。この本は、文学作品を古代から、樹種の移り変わりと照らし合わせつつ通史的に読み解くことで、どのようなイメージがいつ頃形成され、移り変わっていったのかを明らかにしています。
 小川氏は、従来桜の受容史が描かれることはあったが、結局軍国主義的なナショナリズム宣揚のイメージとしての桜に落ち着いてしまうことに危惧を抱き、通史を描いて様々な「桜」像を確認することで、それに反論しています。
 「国華」としての桜イメージは、歌舞伎の舞台で生まれた悲壮美が本居宣長によって国粋的なイデオロギー色を持ち、明治以降富国強兵策に取り込まれていった、極めて歴史の浅いものであると小川氏は述べております。

 私はつい先日坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読み、死の桜、狂気の桜に強く魅せられらのですが、この本を読んでいて、もっと様々な表象の中に浸ってみたいと感じました。

 また私は建築史の研究室に所属しており、造園史にも興味があるのですが、その視点でもこの本は面白かったです。造園史は考古学的資料を使うことが多いイメージが強いですが、文学作品から読み解くのもとても面白そう。後期万葉の時代、官人たちはそれまで詠んできた自然を邸内に移し替えたということや、鎌倉を生涯出ることのなかった実朝が、歌を詠むのに吉野山のミニチュアを作って空想に現実感を与えたなどのトピックも興味深いものが多かったです。

 参考文献リストがないのが惜しいくらい、いろいろと知的関心の湧いてくる一冊でした。またこれを元に、いろいろ文学作品や研究書を読んでゆきたいと思います。
posted by みさと at 15:56| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(他人文科学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月10日

桜の森の満開の下・白痴(坂口安吾)

 岩波文庫、坂口安吾さんの短編集です。収録作品は『風博士』『傲慢な目』『姦淫に寄す』『不可解な失恋に就いて』『南風譜』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』『桜の森の満開の下』『青鬼の褌を洗う女』『アンゴウ』『夜長姫と耳男』です。

 一年ほど前、梶井基次郎『桜の樹の下には』に強く感銘を受け、もう一つ、桜を冠する近代文学で有名な安吾の本作も読んでみたい、と思い、本屋で手に取った一冊です。
 ほとんどの作品に官能的なモティーフが出てくるのが特徴的。谷崎や鏡花の影響を受けていると聞いて、なるほどと思う一方、文章の雰囲気はかなり違います。安吾の文章は、谷崎のさらっとしたものとも、鏡花の幽玄なものとも違う、どこか憂鬱な、退廃的な、すさんだ印象を受けます。
 安吾は、谷崎や鏡花よりも、肉体や肉欲というものを、精神との対比の上で、強く意識しており、それが彼に取っての大きな主題であると感じました。『姦淫に寄す』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『続戦争と一人の女』あたり、それらが特によく現れていると思います。

 多くの短編が収録されていますが、その中でも気に入ったものをいくつか。
 『白痴』は安吾の中で最も有名な作品かもしれません。空襲に襲われる中、白痴の女とともに過ごす男の物語。理性を持たず、肉欲などの本能のみの備わった女。戦争・空襲という、人間の理性が撹乱される極限の状態の中で、「白痴」は特徴的な意味を持ちます。猛火を逃れる終盤、白痴の女は数少ない意思を示します。男はそれに人間を感じ、幸福を覚えます。しかし、最終的に男は女を豚にたとえ、彼女の尻を食いながら肉体の行為に耽るという結末の退廃的な狂おしさはなんとも言えません。

『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』も戦争を主題とした作品。皮肉な男と淫奔な女を題材に、戦時の精神世界をよく描いています。前者の最後、戦争を「オモチャじゃないか」と言い捨て、「もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争に絡みついてやればよかったな」(p184)と女に喩える描写が印象的です。

『桜の森の満開の下』は、梶井の『桜の樹の下には』と筋は全く異なりますが、グロテスクな美しさを描いているという点で共通しています。梶井の記事でも書いたかもしれませんが、生と死は裏返しのものであり、相互に連想させるものでもあります。この作品は、さらに冷たい寂しさと慄然とする狂気をも感じさせます。桜を見ていると、気が狂いそうになる、という感覚も、少し、わかる気がします。山の中を駆けていて、空が一面の桜で埋め尽くされている光景が現れれば、なんと恐ろしいことでしょう。現在では花見は庶民にまで広がっており、桜の植樹も多く、満開の桜もいたるところに現れて、桜は人に近しいものになりすぎてしまいました。しかし、そうした意識がなければ、桜の森の満開の下は、妖しく美しく、不気味な、異空間であります。
 いや、花見の光景を思い浮かべれば、現代においても、人々は桜に集い、狂っていると言えるかもしれない。

『アンゴウ』はこの作品群の中でも異色を放っています。内容・構成ともにさっぱりと美しい。さわやかとまで言って良いかもしれません。

『夜長姫と耳男』は構図としては『桜の森の満開の下』と良く似ています。心理は違いますが、残虐で猟奇的な女の歓心を買うために男が尽くすという構成。可憐なものと残虐な行為が結びつくというのは、しっくりきますし、魅力的ですが、それはどうしてだろう。幼いものは分別がない、とか、ギャップが良い、だなんて単純な話では片付けたくはありません。ここにも、ぞっとする、冷たい、澄み渡った美しさを感じます。 
posted by みさと at 15:10| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする