2017年07月29日

子どもの隣り

 灰谷健次郎さんの短編集です。収録作品は『燕の駅』『日曜日の反逆』『友』『子どもの隣り』です。

あらすじ
 父子家庭の4歳の男の子の目に映る、周囲の人々の人生模様を描く(表題作)。幼なくも不安や孤独を抱える4人の子どもを描く掌編4話。




 幼児〜中学生の子どもの目線から世界を描いた小説。19歳の私にとって、子どもの世界って、近いはずなのに、不思議に遠く感じます。どの少年・少女の心にも共感できる一方で、なぜか自分がもう「子ども」でないということを強く思わされました。35や40のおじさんよりも、はるかに15歳や12歳、4歳の子どもの方が歳が近いにもかかわらず、自分がおじさんに近いと感じる場面も多くあったのです。そう、ぼくは子どもは経験したことがあり、おじさんは経験したことがないはずなのに……!  とても不思議に思う一方で、こうした気持ちも自分を既に「大人だ」と思い込むマージナルマンの幼い感想なのかもしれない、という気もします。
 『燕の駅』では、死の恐怖におびえる少女が母親に意地悪する様子が描かれています。優しさと残酷さ。不安さゆえに身内に意地悪してしまう一方で、他人には優しく接することができるという気持ち、よくわかる気がします。隣室のおじさんとの触れ合いを通して自らの病気と向かい合えるようになっていく。少女の成長と複雑な心理が緻密に描かれていて良い作品です。
 『日曜日の反逆』。「孤独なやつほど演技をしてみせるのかもしれない」。
 『友』の語り手である中学三年生の少女は、一番自分と年齢が近いということもあり、また「優等生」であったところもかぶって、最も感情移入して読むことができました。他人の物語に意識的に乗って喜ばせて見せたり、他者を無責任にも心の中で評価してみたり(しばしば他人と自分への嫌悪を伴って)、「優等生」であることを半ば利用して先生に少し反抗して見せたり。親を軽蔑しながらも愛していたり。昔の自分というどころか、今現在の自分にも同じ心理が当てはまる気さえします。自分と重ね合わせられるから、ということからかもしれませんが、この短編集の中ではこの作品が一番好きです。ちなみに、奈良くんの熱帯魚への愛について書いた素朴な文章がとても心に残りました。ほかの作品にも関西弁は出てくるのですが、自分が関西人ということもあり、関西弁がとても現実感をだして、良い効果となっています。
 『子どもの隣り』は、タアくんのかわいさがすごい! もちろん、灰谷さんのことですから、可愛い無邪気な子どもも単純な人間ではありません。子どもにとって、まして母親を物心つく前になくした子どもにとって、死と生の重たさというものは本当に著しいものでしょう。ベンチに座る老人たちとのやりとりで死について触れられるところ、特に認知症の描写などには、ぞっとする迫力があります(ここには、幼児と老人にとっての死の重さというものが全然違うということもあると思います)。不良少女のやりとりなどで、生き生きとした放埓な生活やセクシャルな描写から濃厚な生を暗示されているというのも一つのポイント。この世を埋め尽くす生と死の圧力を受け止めきれないタアくんの思いは、幼子の語彙の問題もあり「死ぬの怖いの」以上にはあまり語られませんが、最後の彼のつぶやきに凝縮されていると思います。「死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。ここにおるもーん。死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。また、生むもーん」

評価:A
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銀河鉄道の夜

宮沢賢治さんの童話集です。収録作品は『北守将軍と三人兄弟の医者』『オッペルと像』『どんぐりと山猫』『蜘蛛となめくじと狸』『ツェねずみ』『クねずみ』『鳥箱先生とフウねずみ』『注文の多い料理店』『からすの北斗七星』『雁の童子』『二十六夜』『竜と詩人』『飢餓陣営』『ビジテリアン大祭』『銀河鉄道の夜』です。

あらすじ(表題作)
 ジョバンニは周りから疎外されがちな少年。星祭りの夜、彼はザネリらにいじめられ、孤独をかみしめながら天気輪の丘で一人体を投げ出した。いつの間にか、彼は銀河を走る軽便鉄道に乗っていた。そこには親友のカンパネルラも乗り合わせていたのだが……。




 久しぶりの宮沢作品です。前半には平易な寓話的小品がたくさん収録されています。ほとんどが初読なのですが、どれもテンポよく、痛快に読むことができました。
 とりわけ、『注文の多い料理店』。有名なお話ですが、実際に読むのは初めて。日本の昔話かグリムの童話にありそうな、古典的で、しかしツボをついてくる物語でとても好きです。ねずみシリーズもわかりやすく、気に入りました。
 全体的に賢治の仏教に対する思いが見えてくる面もありました。彼の信仰心が特によく見えてくるのは『二十六夜』。このような作品も良いのですが、私がこの面で印象に残ったのは『蜘蛛となめくじと狸』と『ビジテリアン大祭』です。『蜘蛛となめくじと狸』では「なまねこ」を唱え、信ずるものを騙して併呑する狸が生臭坊主の象徴のように描かれており、かなり痛烈な風刺となっております。『ビジテリアン大祭』でも信仰の大祭が茶番と化しているという批判が込められている気がします。賢治は仏教を信仰する一方で当時の宗教の在り方について思うところがあったことが読み取れます。現在のいろんなこと(宗教以外も含め)にもあてはめらて、なかなか考えさせられます。
 『銀河鉄道の夜』は中学時代、学校の授業で初めて読んだ強く感銘を受けた小説です。幻想的な銀河鉄道の世界の中、散りばめられる死の気配。不安感、美しさ、儚さに包まれて恍惚と読み入ってしまう魅力があります。やや難解で解釈が分かれているところ(文章の順番も!)もありますが、それだからこそ無限に小説の世界が広がっているのかもしれません。

評価:A
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2017年07月03日

〈景観〉を再考する

松原隆一郎さん、荒山正彦さん、佐藤健二さん、若林幹夫さん、安彦一恵さんによる講義録です。それぞれ順に「経済発展と荒廃する景観」、「近代日本における風景論の系譜」、「近代日本の風景意識」、「都市の景観/郊外の景観」、「『良い景観』とは何か」という題目です。
倫理学や経済学、社会学、地理学などそれぞれの論者がそれぞれの立場から景観・風景について書かれています。
この中で一番心に残ったのが若林さんの議論です。近代、土地の商品化による都市化や郊外化を機に、空間は本来的に意味や価値を持たない均質空間だと考えられるようになりました。このため、元来あった土地が人々にアイデンティティや共同性を与えることもなくなり、同じような住宅が広がったり、土地に根差さぬ自由なデザインの建物が建てられるようになったのです。

ここから、若林さんの議論をもう少し詳しく書くと同時に自分の意見も加えていきたいと思います。
空間が均質空間とみなされるようになったということは、土地が市場という単一のシステムの上に乗せられるようになっていることに象徴されます。ニュータウンの開発の際、山を切り崩し、谷を埋めて均質な土地に改造していることにもそれは表れていますし、なによりも、日本全国、場合によっては世界の、都心や郊外住宅地、ロードサイドにおいて、同じような建物が同じように延々と並んでいるという眺めを考えるのがわかりやすいでしょう。時に独創的な建物が建設されたりすることもありますが、それは多くの場合、その土地の風土と遊離したものであり、意味の持たない均質な土地であるからこそ、白いキャンバスのように何でも描けるのです。
 これは私たちが郷土によっていたアイデンティティ(同郷人意識もそうですし、過去の自分と故郷を離れた現在の自分との同一性もそうです)が存在しえなくなるということにつながります。また地域共同体の不成立が郷土へのアイデンティティを揺るがしたということはよく言われていますが、それが風景の崩壊、空間の均質化をもたらし、アイデンティティに二重の影響を与えた面もあります。
 風景の崩壊――景観の均質化がアイデンティティの脱場所化をもたらし、ひいては現在のナショナリズムの高揚につながっているのではないか、とふと思いました。(ナショナリズムにおける「日本」は場所ではなく概念である、とだけ言い捨てしておいて、また気が向けばこのあたりのことも改めて深く掘り下げて書いてみたいと思います。)

評価:B
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2017年06月30日

風景学 風景と景観をめぐる歴史と現在

 中川理さんの本で、風景・景観についての認識・論考の歴史を概観した一冊であります。最近大学の授業で、風景や景観に関する話題がたくさん出るので、レポートを書くためというのもありますが、興味が出てきて風景についての本をよく読んでいます。これはその第一弾。
 風景という言葉自体なかなか定義しづらいものではありますが、人間によって何らかの共有されうる意味が見出される眺めといった風景に考えることができます。ここでの「意味」とは、嶮山に対する「ピクチュアレスク」のような純粋美観であったり、眺めに現れる人々の生活であったり、都市や集落の長く重なった歴史であったり…。(この例には中川さんの定義とは少し異なるものもありますが)。
 「風景」というものは地理学、建築学、造園学、美学、倫理学など、極めてさまざまな学問が絡んでいます。さまざまなアプローチからさまざまに考えられるものでありますが、同時にいずれの素養も得ておかないと深い理解につなげるのが難しいような気もします。そうした意味で、多様な学問の考えを取り入れながら概説したこの本は、「風景学」の入門にぴったりだと思います。

評価:A
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2017年06月08日

スクールカースト

 鈴木翔さんの本です。スクールカーストとは、主に中高に存在する、クラスに存在するカーストのような格付けのこと。中学生以上の多くの人が経験したことがあるのではないでしょうか。明るい運動部がクラスを牛耳り、静かな文化部が沈黙するというのが典型的な構図であります。
 生徒は権力の階級として、先生は能力(コミュ力、生きる力)の階級として把握している二重構造があり、両者はそれを容認して、あるいは利用しながら学級を作っていくという指摘は面白かったです。生徒の観点は私も中高時代感じていたこととそう変わりませんが、先生の視点が紹介されていたのが興味深かく感じました。
 「いじめ」の研究は多くされていますが、「いじめ」まで行かずとも上下多くの人に息苦しさを与えているスクールカーストの研究は意外にもまだ緒についたばかりだそうです。
 何が原因でこのような構図が生じるのかは、まだ明確にはされていませんが、そのシステムが次第に解決していってほしいと思います。

評価:B
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2017年06月01日

奈良の寺――世界遺産を歩く――

 奈良文化財研究所の本です。古代史、建築史、考古学、保存科学、造園学など様々な分野の所員さんたちが、奈良市内の寺社を解説しています。特に建築史的なトピックが多く、字引片手に専門用語を調べながら読みました。。何度も訪れたことのある奈良といえども、全然知らないことばかり。この本を通して歴史を知れる、というより、歴史を紐解く、また歴史を繋いでゆく専門家たちの姿を知ることができます。
文化遺産って本当に様々なアプローチがあるのだな、と実感しました。

評価:B
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2017年05月27日

魔女の宅急便

 角野栄子さんの小説です。

あらすじ
 キキは魔女の娘。13歳のある満月の晩、黒猫・ジジを連れ、放棄に乗って飛びたった。独り立ちの日であった。キキはコリコという海辺の大きな町に降り立ち、「魔女の宅急便」屋さんを開いたが…。




 13歳の少女がいろいろな人に囲まれながら、少しずつ大人になっていくのがよく描かれていました。幼さ、おてんばさと可愛さ、そして時々覗く「大人」の萌芽がとてもよく伝わってきました。
 空を飛びたい不器用なとんぼくん、好きなひとに恋文を書く女の子、なんにでも腹巻を作ってあげるおばあちゃん…。ほかの登場人物たちも、皆どこか可愛らしくて魅力的です。正月や春の音の話といったストーリーの展開もほのぼのとしていて良い感じです。
 また魔女の魔法がだんだんと失われていっているという描写が印象に残りました。伝統の価値が云々を議論されるまでもなく、「めんどくさい」などの無邪気な、無垢純粋な心情から文化や伝統が失われていくのだというのが象徴的に描かれている気がしました。私は文化主義的な考え方をしがちなのですが、その消失は責められるようなものではないのが難しいところであります…。
 とにかく、読んでいて楽しく癒される一冊でありました。

評価:B
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里山資本主義

 藻谷浩介さんの本です。木質バイオマスをはじめ、地域内のエネルギー、食糧、建材などのものを利用することで、お金が無くなったり輸入が唐突に途絶えたりしても生活していけるサブシステムを構築する「里山資本主義」を説いています。
 林業や地域にかかわっている身として前から気になっていた本です。かなりわかりやすく書かれている反面少し断定的な文体だったので、「検証した方がいいのでは」とか「本当にそういえるのか」と思ってしまう面もありました。
 経済成長をひたすらに目指すのではなく、停滞や多少下向きでも長く続く経済、ある程度外に頼らなくても自立できる経済を考えるべきというのは、中高時代からの私の思いとかなり近いところ。自分と意見が近いだけに、文体が気になってしまったという感はあります。
 里山資本主義は一つの重要な考え方であるのは確かだと思います。地域を生きる人はもちろん、グローバルな世界を目指す人にもぜひとも読んでもらいたい一冊であります。

評価:B
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2017年05月13日

精霊の守り人

 上橋菜穂子さんのファンタジー小説です。

あらすじ
 バルサは熟練の女用心棒。ある日川に落ちた新ヨゴ皇国の第二皇子・チャグムを救う。そのことをきっかけとして、バルサは精霊の卵を体に宿し、父に狙われるようになったチャグムを護衛することになるが…。




 妹が好きな作品で、中高を通して友達からも何度かおすすめされていましたが、大学生となった今になってはじめて読みました。昔はファンタジーが苦手で、どうも読むのが照れくさいと思ったり、中学時代宮部みゆきさんの『ブレイブストーリー』に挫折したりした経験もありましたが、大変楽しく読むことができました。中学時代などは「この年になってファンタジーは、、、」という風に考えていたのですが、今思えば背伸びしてかっこつけているようで、そのことを思い出す方が照れくさいです笑
 さて、この小説の読みどころは、精緻に作られた世界観。文化人類学者というだけあって、特に先住民族・ヤクーの風俗描写が物凄く上手です。家に入る敷居の前で二度足踏みする厄落としなどの風習やヤシロ村の立地・地形・衣食住の描写などがきわめて具体的にかつわかりやすくあらわされており、立体感といいますか、世界が生きたものとなっている気がします。特に鳥<ナージ>の骨を垂らした村境の道切り縄の持つ意味合いは物語の根幹にかかわっており、作者が民俗習慣の観察に慣れていることがよくわかります。
 またヨゴ人とヤクーの関係は、現実世界の国家を思わせます。ヤシロ村などの国家周縁部においても先住民族と支配民族の混血がおこなわれ、「ヤクー」が消滅しようとしている。言語はヨゴ語に統一。風習もクレオール化が進む。しかし、それでいてなお、首都のヨゴ人はヤクーを蔑視している。豊作を祈る夏至祭りの持つ意味も帝祖の偉業を称えるものに変化している。こういうところも、筆者が背景とする文化人類学が強く活かされていて良いです。ある意味この小説を読んだのが大学で文化人類学を少しかじってからでよかったとも思えます。
 バルサが無敵の超人ではなく怪我もし、また星読博士たちが権力闘争に熱を上げたりしているのも、人間臭くて、物語の立体感を助けています。
 テンポの良い物語進行、覇気のあるアクションシーンもあり、かなり読みやすく、読んでいて爽快でした。また続編も読んでみたいです。

評価:A
posted by みさと at 15:41| 奈良 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書(その他の著者) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

文化と国家――教育と国民の形成

 久しぶりに社会科学にまつわることをブログで書こうかな、と。教育が国家を形成し、ナショナリズムを生じさせるというゲルナーのナショナリズム論を元に、文化と国家・地域の関係を考察してみようと思います。政治や教育については全くの門外漢ですが、大学で学ぶ人文地理学・文化人類学と深く結びつき、中々興味のあるところであります。

ゲルナーは農耕社会から近代の産業社会への移行が国家を生み出したと述べています。産業社会の二次・三次産業は普遍的な読み書きの能力、また高水準の計算能力などを必要としています。これらの能力を身に着けるためには、農耕社会での口伝的、実践的な教育ではなく、地域によって異ならない、高次の教育が行われる必要があります。この高次の教育システムを支えるためには国家が必要であり、逆に言うと、国家は教育を独占し、国家の領域を標準化・定式化したやり方で、「国民」に教育を行います。このとき、新世代に伝わる文化は口伝的な共同体の個別文化ではなく、汎国家的な、あるいは国家という単位に統一された文化であります。新世代はこうして「国」の文化に愛着を持つようになり、ナショナリズムが生じるのであります。(出版資本主義、想像の共同体という議論もありますが、長くなるし調べればすぐ出てくることなので割愛…。)

 ここで、具体的な事例を取り上げてみます。発展途上国の国土周縁地域において、先住民族の識字率を上げようとする取り組みは様々な国でなされています。私は高校時代、タイの先住民族の識字率向上に取り組むボランティアの人と会ったことがあります。彼女は、「その地域の先住民族は文字のない言語を使っており(即ち識字率が低いため)、近代的な職に就けず生活レベルも低い。そのため、タイ語教育を推進して識字率を向上させたい」と述べていました。
私はそれを聞いて、複雑な気持ちになりました。確かに、近現代的な二次産業・三次産業の職に就くためには多くの場合文字を読めなければならず、またその文字は普遍的な共通語であることが望ましいのはもっともです。実際タイ語の文字教育を行えば、その民族は経済的に豊かになれるかもしれません。
しかし、これまで受け継がれてきたその民族独自の言語や文化はタイの共通語・タイの中心的な文化に併呑されることとなるのではないか。さらに文字を読めるようになった住民は都市的職業を求めて都市に移住し、長らく独自文化を養ってきた地域自体が消滅してしまうのではないだろうか。タイの周縁地域におけるタイ語教育は、日本がアジア各地で行っていた皇民化政策といかに違うのだろうか。そう疑問を抱いた一方で、文化の喪失は彼らにとって意味のあることかどうかはわからないのではないか、ということにも気づきます。文化の継承よりも現代的な豊かな暮らしを享受する方が彼らにとって幸せなのかもしれない。すでに幕末維新期、文化を西欧の波に沈めるのと引き換えに産業化を享受している私たち日本人にとやこう言う資格はない。もし識字教育を推進する人たちが、彼らの意志を確かめた上で運動を行っているのであれば、反論はなおさら難しくなります。
今になって、あのとき農耕社会から産業社会への変化の様子、そして国民が生成される様子を目の当たりにしていたのだと気付きます。あの地域の住民は、XX族からタイ人になろうとしていたのです。
国民・国家の生成は、国家以下のスケールの文化を多かれ少なかれ消滅させてしまいます。ナショナリストは国家の文化を殊更に信奉して、画一的な風景や価値観を増産するグローバリゼーションを批判しています。しかし、あえて強い言葉を使うと、彼らの信ずるところの文化は教育というものを通じて内なる文化を多く滅ぼして恣意的に形成された文化なのであります。すなわち過去において生じたナショナリゼーションは現在起こっているグローバリゼーションと同じ一面を持っているのです(だからと言って、個人的にグローバリゼーションを肯定するわけではありませんが)。それが国家という規模か、世界という規模かの違いです。
 グローバリゼーションを文化の面から批判するのであれば、国家とその国の文化の関係から見直さなければなりません。
 そもそも、ある基準で空間を区切るという行為自体がそれ以下のスケールの文化やアイデンティティを滅ぼすことに繫がっているのだと思います。また後日稿を改め、今回より微視的な観点から、廃藩置県や都道府県、県民性の問題を例に挙げ、この問題について考えたいと思います。
posted by みさと at 17:46| 奈良 | Comment(0) | TrackBack(0) | 地理/歴史/政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする