2018年11月29日

女生徒

 角川文庫、太宰治さんの短編集です。収録は『燈籠』『女生徒』『葉桜と魔笛』『皮膚と心』『誰も知らぬ』『きりぎりす』『千代女』『恥』『待つ』『十二月八日』『雪の夜の話』『貨幣』『おさん』『饗応夫人』。

 いずれの作品も女性一人称の語り手による物語。
 表題作が少女性をよく描いた作品として名高く、友人に薦められて手に取りました。「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。」少女が1日を辿りながら、様々なことに感情を巡らしていくのを独白するという形式。汚れていくことを恐れる、荒んでいながらも透き通った敏感な思春期の心が文体にも表現にもよく現れています。
「キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青みには、胸がカラッポになるような、疼くような、くすぐったいような悲しさがある」(p24)
「鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活き活きしている。顔は、他人だ。私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている」(p46)

 この作品で描かれているのは、よくドラマや映画に描かれるような、理想化された思春期「青春」ではありません。もっとトゲトゲしていて、不安定で、センチメンタルな、実際思春期に自分が体験してきた心情に近く、読んでいて色々と胸が切なくなりました。
 思春期なんてついこの間のことだと思っていたのに、この物語を読むともうすっかり遠い昔に過ぎ去ってしまったことが実感されます。もうこんな、ガラスのような心を持つことはできない。私も、もう20歳です。

 社会史的な点に注目しても面白いところもあります。この物語の舞台は、郊外。作品が発表されたのは1939年。都市を逃れ郊外にはじめに進出するのは当初富裕層に限定されていましたが(谷崎『細雪』の世界ですね)、戦前戦中のこの時期は鉄道会社による郊外開発も進み、新中間層が良好な環境を求めて郊外に進出した時期であります。
「よそからはじめてこの田舎にやって来た人の真似をしてみよう。私は(中略)生まれてはじめて郊外の土を踏むのだ。(中略)遠くの畠を見るときは、目を小さくして、うっとりした封をして、いいわねえ、と呟いてため息」(p40-41)
 この辺りの描写には、そうした当時の良好な環境を志向する認識の様子が表れていて興味深いです。近世以前の日本人の風景観は「名所」を美とするものであり、農村のアノニマスな風景を見て美しいと感じるのは比較的近年のことであります。こうした郊外への進出と日本人のの風景観の変化もひょっとしたら時期が対応しているのかもしれません。また調べてみても面白そう。


 他の作品も、なかなか心に突き刺さるものばかり。
『恥』の小説家に自意識過剰で尊大な手紙を送ってしまう少女、『饗応夫人』の「泣くような笑うような」声をあげて来客の接待に狂奔する夫人、それから『千代女』に『皮膚と心』の主人公、、、。自分の中にも多少彼女たちに似た心がある分、強烈な形にして描いたこれらの作品群を読んでそれを自覚し、胸が何度もきゅうっとなりました。
 『雪の夜の話』なんかも、美しく、荒んでいて、良い。
 いずれの作品も本当に良い作品ばかりの名短編集だと思います。借りて読みましたが、また買って手元に置いておこうかな。
posted by みさと at 15:32| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月27日

吉野葛・蘆刈

 岩波文庫、谷崎潤一郎さんの中編二編。どちらもある土地を舞台に、第二の語り手による母性思慕の追想に没入してゆくという構成の物語であります。
 『吉野葛』の舞台は、上市から国栖、柏木を超え大台ケ原に至る吉野川の源流域の広範な領域。解説でも同様のことが述べられていましたが、源流に遡って行くのと対応して津村ーーそして、それをの内面世界の深奥に近づいていくという所に、作品の妙があると思います。
 吉野は鄙びた地でありながらも、源平や南朝といった歴史的な意味の積み重なった土地であります。
「この悠久な山間の村里は、大方母が生まれた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう。(中略)津村は「昔」と壁一と重の隣へ来た気がした。」(p63) 私たちは田舎を見るときに(たとえ生まれが都会であっても)郷愁を感じたり、農村地域のキャッチコピーに「日本の原風景」と銘打ったりするように、しばしば農村、田舎というものに過去を幻視します。たとえ、そこでの暮らしが現代様になっていたとしても。農村から都市への空間的移動(移住)、時間的移動(都市化)が日本の時代的流れとして存在しており、「田舎」=過去という構図が社会的に成立している気がします。近代化の最中、阪神間の郊外に暮らす谷崎によって書かれた『吉野葛』のこの表現には、そのことがよく現れている気がします。
 時間を遡っていくという主題は、深い歴史を持ち、農村景観を維持した吉野の場所性とよく合致していているように思えます。
 さらさらとした嫌味のない風景描写は心地よく、作品を読み進める手を止めずになお吉野の風土が胸にしみてくる感じがします。実際に舞台を訪ねてみたい気持ちまでも起こってまいります。三之公周辺を登山したいのですが、もう間も無く雪が積もってしまいそう。上市の町や国栖の村を訪ねてみようかな。

 『蘆刈』の舞台は京阪の県境に位置する淀川・水無瀬。構成や雰囲気は吉野葛と良く似ており、これも読んでいて心地の良い小説です。
 どちらの作品も谷崎ーー語り手ーー第二の語り手が重なる感じがあります。『蘆刈』では男が「ちょうど私の影法師のよう」(p106)と描かれていたりしてそれがよりはっきりとしています。お遊さんの人格は『少年』の登場人物にも少しかぶるような感じがして、谷崎の理想の女性像に「母性」がよくあげられますが、少しわがままな嗜虐性のある(揩スけた)人というのもあるのかもしれないな、と思ったり。
 私の所属する研究室助教の藤原学先生が、修論でこの作品を題材に淀川・水無瀬・小椋池の場所性を探る論文を書いていらっしゃいます。先輩からそれを送っていただいたので、勉強も兼ねて読んでみたいと思います。
posted by みさと at 11:51| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月26日

場所の現象学

 エドワード・レルフ著、高野岳彦・安部隆・石山美也子訳の本です。
 「現象学」はフッサールに始まる哲学的方法論で、人が純粋に経験する現象に立ち返り、それそのものを考察するという学問であります。これは現象の裏にある事実を客観的に読み解き、分析する「科学」へのアンチテーゼという面を持ちます。
 この本はこうした現象学という考え方を地理学に引用したものです。地理学は自然地理学に始まり50-70年代には計量革命が席巻しますが、これらのアンチテーゼとして、人々の場所体験を重視する「現象学的地理学」「人文主義地理学」と言われる分野が70年代以降力を持つようになります。レルフによる本書は、その中でも名著と名高いものであります。

 レルフの影響を受けた著者による本を何冊か読んでいるので、大まかな内容は知っていたのですが、それでも勉強になるところが多くありました。
 人々と場所の関係を「実存的外側性」「客観的外側性」「付随的外側性」「代償的内側性」「行動的内側性」「感情移入的内側性」「実存的内側性」、人々にとっての空間を「原初的空間」「知覚空間」「実存空間」「計画空間」「認識的空間」「抽象的空間」というように、その経験の深さに対応してそれらを分節していることに顕著でありますが、本書ではこの周辺の分野でしばしば共有されている様々な概念が体系的にわかりやすく整理してあります。ある概念群が体系化されることは、それが一つのジャンルとして確立する基礎を作ります。この本が名著と言われる所以は体系的な整理により人文主義地理学を学問分野として成立させたことにあるのだろうな、と思いました。


 内容を詳述するときりがありませんが、トピックとして印象に残ったものを二つほど。

 一つは現代の景観における変幻自在性の話(p276〜)です。「変幻自在人間」というのは、リフトンが1969年に現代の人間に特性を説明するときに用いた言葉であります。これは、例えば「中産階級出身の若者が過激派になり、保守的なビジネスマンになり、住民運動かになったりするように」、現代の人間は身についた行動パターン・信念・アイデンティティをころころと変えながら生きているというもの。
 「変幻自在人間」は、現代の個人主義・自由主義・資本主義など近代以降のイデオロギーと深く結びつきながら発生しているでしょうし、また、近代において生じた家族機能の外部化もこれを助長させているような気もします。家ー学校/職場、中学校ー高校ー大学といった分断が、アイデンティティの分裂を招いたと考えるのも、そう不自然なことではないでしょう。私自身の経験を近代人に当てはめるのも安直な話ではありますが、私自身周囲の環境の変化にともなって、あるいは所属する社会集団によってアイデンティティが分裂しているような自覚があります。

 レルフは、この「変幻自在性」は今日の景観にも表れていると論じています。経済的発展とともに、都市中心では伝統建築が汎世界的な高層ビルヂングに建て代わり、郊外では農地が宅地と変わってゆき、交通網の変化に従って都市の中心や構造も変化していく。建造物の意匠も流行に従ってほんのわずかな期間で変化していく。こうした世界において、どこに行ってもマクドナルドや郊外のロードサイドのような没場所的な、汎世界的な景観があることは、人々に親近感を与え、「今日の生活を特徴付ける激しい流動性に私たちが耐えるのを手助けしているのかもしれない」とレルフは述べています。換言しますと、時間的流動性によって危機に晒された人々のアイデンティティを、空間的不変性・均質性が人々のアイデンティティを保証しているということだといえます。ふと、郊外に生まれた友人が、「チェーン店を見たら安心感を感じる」と述べていたことを思い出しました。


 もう一つは自動車の話(p267〜)。現代都市(景観)はそのスケール感、交通骨格、周辺の空間(農地、住宅地…)との乖離など様々な点で人間疎外的な特徴を持ちますが、自動車はそうした都市景観と人間を結ぶ装置となっています。道路を走っていると「信じられないほど過酷な注意力を求める人間=機械システムに喜んで従おうという気持ちになる。」「絶え間ない意思決定の流れを要求」されているというバンナムの引用(p270)が印象的です。一方で、自動車は個人と都市景観を結びつけますが、現代の疎外的な都市景観(テクニークの偽物性)自体、自動車を前提とし、合理的な「熟慮・理屈」の経済システムとイデオロギーによって形作られたものであることも重要な事実であります。
 先日ワンゲルの友人と車の中で会話をしている最中にふと思ったことですが、私たちは少なからず自動車を自らの身体の拡張部分(足ー機械ー精神)という認識を持っている気がします。この拡張身体は、普通では決して達することのできない速度・世界に突入する装置となっています。すなわち、自動車は身体によって身体を超越する体験を許してくれるのです。ドライブの楽しみの一つはここにあるのではないかな、と思ったり。哲学は全然まともに勉強したことはありませんが、現象学・身体論は面白そうだなァと感じます。また余裕があれば勉強してみたい分野の一つであります。

 現象学的地理学は、現在の私の思考の一番の中心となっているもの。卒論に取り組む前に、もっとこの分野の本を読んでおきたいです。トゥアンあたりにも手を出そうかな。
posted by みさと at 16:12| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(地理学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月21日

兎の眼

 灰谷健次郎さんの小説です。ゴミ処理場のある街の小学校を舞台に繰り広げられる人間模様を描いた作品です。
 灰谷さんは、『笑いの影』という作品が被差別部落への差別意識が強いとして問題視されたということがありました。この『兎の眼』の「処理所」というものも、多少被差別性を帯びており、どう扱うかはともかく、灰谷さんにとって一つのテーマなのかもしれない、という風に思いました。(『笑いの影』がどのようにそれを扱っているのか読んでみたいのですが、残念ながら世間に出回っていないようです。。)
 この作品では処理所は「下町の温かみ」のような、好意的なイメージで描かれています。終盤の処理所移転関係の話では、公の一方的な通告に子供達の安全な通学する権利を訴えている様子が描かれています。この辺りの描かれ方に灰谷さんの思想、イデオロギーが透けて見えたり。
 社会的な側面ばかり書いてきましたが、物語の筋はわかりやすく明快で、とても生き生きとした児童文学らしい児童文学です。登場人物もそれぞれが個性的で魅力的であります。モヤモヤとした社会への批判意識を内在し、それを露わにしながらも、爽快でえぐみのない物語が作られているのがこの作品の魅力的なところだと思います。
posted by みさと at 17:52| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(児童文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月10日

みぢかな樹木のえほん

 後輩に貸してもらった一冊です。公益社団法人国土緑化推進機構編、平田美紗子絵。
 山に、庭に、街に身近に植わっている樹木をイラスト・漫画を用いて、子供向けに紹介した本です。春夏秋冬の生態や生き物や人間の生活との関わりが簡潔に書かれています。
カエデ、マツ、ケヤキ、ツバキ、スギ……紹介されている木はいずれも名前は誰もが知っているもの。しかし、これらを全て識別できる人も、それらがどのように使われているか知らない人がほとんどではないでしょうか。私自身、2年間林業サークルに所属してある程度木についての知識がついてきたつもりでしたが、それでもなお知らない知識が多くありました。大人が読んでも、大いに勉強になる本だと思います。

 一方で、子供向けにしては情報量が過多で、熟語も多く、子供向けにしては難しすぎる気がします。普通の一般書にふりがなを振っただけのような部分もあり、子どもの教育よりも、大人の入門書として良書であると思います。
posted by みさと at 23:16| 奈良 | Comment(0) | 読書(農学/林学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月27日

PTSDとトラウマのすべてがわかる本

 飛鳥井望さん監修の本です。下の妹が数年PTSDを患っていることから母に貸してもらったものを読みました。一般向けの本で、イラストと簡単な文章を使ってわかりやすく述べられています。
 PTSDやうつと言ったものの症状は、単なる悲嘆、気分の落ち込みと混同されやすく、多少のリテラシーを持っていないと、患者のこころを傷つけ、病気を長引かせる誘引にもなります。私も当時はPTSDの存在こそ知っていましたが、正しい理解を持たないまま妹と触れ合って、傷つけてしまったこともあるかもしれません。
 何となくPTSDのことを知ってきたつもりでいましたが、再体験、回避・麻痺、過覚醒がPTSD の主要三症状ということや実際の治療でどのようなことをしているのかということさえ知らず、読んでよかったと思います。何となく自分で知ること、妹の病気と向き合うことを避けている面もあったので、これをきっかけにもう少し勉強し、向き合いたいと思えました。
 このシリーズを何冊か貸してもらっているので、また空き時間に読もうと思います。本当に簡単な一般書で情報量もそう多くありませんが、基礎知識もない身からすると気楽に読める分良い気がします。
posted by みさと at 23:51| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(他自然科学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月20日

山女日記

 湊かなえさんの短編集です。収録作品は『妙高山』『火打山』『槍ヶ岳」『利尻山』『白馬岳』『金時山』『トンガリロ』『カラフェスに行こう』です。
 「イヤミス」で有名な湊かなえさんではありますが、この短編集はどの作品も後味の良いものが揃っており、気持ちよく読むことができます。
 これらの物語に通じることでありますが、山を登っている時、普段生きている時考えていることがふつふつと湧き上がってくるというのは私も実感としてよくわかります。高校時代、週末近所の柏原市高尾山に一人登るのが習慣であったのですが、歩く最中に一週間に溜まった心の澱が吐き出されて山頂に上がった頃には晴れ晴れとした気持ちになっていた記憶があります。
 作品に出てくる女性たちはそれぞれ悩みを抱えており、ゆるふわな所謂「山ガール」のイメージとは合致しません。山を通じて悩みを何らかの形で解決していく姿は高校時代の登山を思い出して、懐かしくなりました。
 現在私が大学の部活でしているのは殆どがパーティーを組んでの沢登りなので、かなり毛色が違います。誰かと一緒にいると、楽しくもありますが、一方でストレスがたまる面もあります。沢登りだと緊張感があり考えごとをする余裕も少ないことも多いです。久しぶりに、単独行のハイクなり縦走なりをしてみたいな、と思いました。
posted by みさと at 20:22| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(その他文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月17日

陰翳礼讃・文章読本

 谷崎潤一郎の随筆集です。収録作品は『陰翳礼讃』『厠のいろいろ』『文房具漫談』『岡本にて』『文章読本』です。

 最近新潮文庫で購入しましたが、どの作品も高校時代に読んだことがあります。
 中でも『陰翳礼讃』は、高校時代に最も影響を受けた文学作品でありますが、色々知識の増えた今、改めて読むとやはり良い。照明や厠、料理、建築などなど話の題材は多岐に渡りますが、高校時代にもっとも感銘を受けたのは食の話です。
 羊羹について
「玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、ーー」(p29)
「人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ーー」(同)
 などと述べています。表現の美しさに悶え、羊羹を買いに走りたくなる思いに駆られます。普段何気なくとっている食事のなかに美があることに気づかされましたし、できるだけ部屋の照明を落とし、日本の食器を使って食事をしたいと感じました。

 私の所属する京大総合人間学部環境構成論分野では、建築論も専門の範疇に入っていることもあり、日本建築のトピックも強く印象に残りました。深い庇や障子を通してほのかな光を取り込むことによって生じる微妙な陰影が日本の奥ゆかしき美を幻出する。折しも『大阪の民家』という民家の写真集を並行して読んでいたこともあって、その美しさが実感を持って理解できました。実家に帰った時や親戚の家を訪れたときに、この感性を持って家の陰影を感じて見たいと思います。

 『厠のいろいろ』は、冒頭に出てくる、大和上市の空中の厠が印象的です。尾籠な内容でありながら、部分によって爽やかさすら感じるユーモアがあり、読んでいて気持ちの良い小編でした。

 『文房具漫談』の内容は、かなり現在の文章論の通説となっているところが多く、首肯しながらするすると読めました。これまでの経験で理解しているところが多いものも、特に無用な装飾に凝り含蓄が現在されている文章が近年多く見られるという指摘には、耳が痛い限りです。


 『陰翳礼讃』には、本当に世界の見方が変わると言っても誇張ではないほど影響を受けています。まだま読書量の足りない私が言うのも軽薄ではありますが、座右の書と言っても良い一冊であります。
posted by みさと at 18:37| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

リンク集閉鎖/旧リンク集(鉄道系)

 2011年にブログを始めた頃、鉄道系の色が強く、鉄道系のHPさまと繋がっていました。リンク集の閉鎖に伴い、リンクさせていただいていたサイト様を記事に残しておきたいと思います。


一新電新〜ひかりきょんのサイト〜
Red Liner〜赤い列車〜
RailOverTheWorld
鉄道率99%なページ
一瞬を追いかけて・・・
Hanwa,net
W231-3800之家頁
ことブログ
不定期列車が参ります
posted by みさと at 08:10| 奈良 ☔| Comment(0) | 更新履歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月16日

大阪の民家

 児島祥浩さんが大阪府内にある旧家の数々の写真を撮り、長山弘子がエッセイを付した写真集です。本が出たのは昭和62年、大阪府の職員機関紙『職員時報』に連載されたのは昭和39年から54年であるため、とても古い内容であります。
 撮影されたのは今から39〜54年遡り、現存しない民家も多いと思います。私の実家も掲載されているのですが、19年前に母屋が火事で全焼し、長屋門と蔵を除いて現存しておりません。このような特殊な事件がなくとも、都市圏では広大な敷地にかかる税金を払うのが大変ですし、山間部では就業難や生活の不便で転出への圧がかかり、現代古い家(屋敷・家集団)を維持していくのは極めて難しい時代になっております。

 この本の魅力は、資料として写真が取られてそれを解説する文章が書かれているのではなく、美的意識を働かせた芸術写真に知識とともに完成を働かせたエッセーを付しているところです。ただ建築の解説をするのではなく、人々の生活の染み付いた古民家の息遣いを感じ取っているのです。「記録」ではなく、「記憶」を綴った書であると言えるでしょう。
 偶然にも谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を並行して読んでいるのですが、これによってより日本文化の美を深く感じることができたように思います。日本民家は闇を深い庇を持ち、障子を通して仄かな光を室内に取り込んでいます。儚い光線にぼうっと浮かび上がる造形、部屋の隅々に折り重なった闇。白黒の写真がその陰翳の美しさをよく表現しており、通読を終えても何度も写真を見返してしまいました。

 街を歩いていて古く立派な民家を見かけると、心がきゅんとしめつけられる思いがあります。それは、単純に美しいものを見かけた嬉しさに加え、数少ない旧き時代の生き残りを見かけた興奮、それがこの先も続いていくことの厳しさを思っての悲しみなど様々な感情の綯い交ぜになったものであります。
 建物や土地には人々の記憶が宿ります。そっとその記憶に触れるときのセンチメンタルが私の人生のテーマではないか、とふと感じます。
posted by みさと at 20:39| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(建築学/都市論) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする