2020年05月25日

クソ物件オブザイヤー(全宅ツイ)

 最近不動産への関心が強まっており、家にあったこの本を読み物として手に取りました。スルガ銀行の「かぼちゃの馬車」事件、南青山の児相反対運あ動、レオパレスの施工不良問題、野立てソーラー…ここ最近の有名な事件がまとめられていて勉強になりました。
新しい接道ができて解消された元旗竿地の竿の部分に建てられた狭小住宅「コニファコート成城学園前U」がとても印象的。
 いろんな事件を知れて面白かったと感じる一方で、土地や建築は「有効利用」するものであり、お金を稼ぐ「資産」であるような書き口にもやもやしたり。一面ではそりゃそうだし(実際私もそれで食べている)、不動産業というのは土地や建築の「資産」である面に注目した業種でありますが、同時に土地や建築は住まう、生きられる「場所」であるということを思うと複雑な思いになります。(この本のタイトルも、若干苦手…。場所に宿る人の生きた痕跡を嘲笑の対象にしている感じがする、、)
とはいえ、土地や建物の持つ「資産」という面を知ることは、人々の行動やその空間に対する経済的規定を知ることに繋がります。この辺の勉強もぼちぼちしていきたいと思います。
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2020年04月25日

不動産就活2.0(全宅ツイ)

 軽い読み物として。就活本というより、不動産業界のぶっちゃけ話みたいな感じの本。なんとなく自分の中で、勤め人だと終身雇用が普通みたいな固定概念があったので、この本を読んで、結構転職前提の話をしているのに衝撃を受けました。
 都市開発、地域づくりの仕事に関心があるため不動産関係に関心があります(実家の家業とも繋がるというのもありますし)。
 不動産鑑定士の資格も、ちょっと興味が出たり。中々修士課程の学生だと在学中の取得は難しいかもしれませんが。。
 コロナで景気も悪くなりそうですし、色々将来のことを神経に考えないとなぁ、と思っています。
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2020年04月13日

在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活(荒木優太編)

「働きながら論文を書く」「学問的なものの周辺」「新しいコミュニティと大学の再利用」の三部構成で、14人の著者が短いエッセイを書いています。
執筆陣の立場も、その研究活動も様々です。会社員をしながら研究する人、出版に携わる人、研究者の支援を行う人…多彩な内容がありましたが、印象に残ったのは石井雅巳さんのエッセイ。石井さんは現代フランス哲学の修士を出て地域おこし協力隊として津和野に就職し、西周の顕彰事業に携わります。そこでは地域側とアカデミア側の需要を結びつけ、全集の発行、市民も含めたシンポジウムなどを企画しています。任期の切れた後は博士後期課程に戻りますが、協力隊として働いていた期間はアカデミアにおいても非常に価値あるもののように思えます。
この本の中では大分かっちりした方であるとは思いますが、これからの院卒者のキャリアを考えるときに面白い実例であるように感じます。

私自身、研究をすごく楽しいと思うのですが、博士後期課程に進学してアカデミックポストを考えるとなると、やっぱり任期なしの職につくのがかなり遅くなりますし、能力的にも不安を感じます。そう思うと、こうした在野で研究活動を行うのも選択肢に現れてきます。色々将来のことを考えてしまう日々です…。
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2020年02月28日

鉄道業界大研究(二宮護)

来年から就職活動をしなければならない、という義務感でキャリアサポートルームから借りた本。鉄道業界の現状、歴史、近年の動向、各社の特徴などをざっくりとまとめた本。
鉄道会社は沿線の開発や観光振興に関わっているため、歴史の項を面白く読みました。東急のもとが田園都市社とは知らなかった…。
最近高校の同期が就職して行くのを見て早く社会に出たい、という思いも強いのですが、卒論が楽しかったということもあって同時にアカデミアに残ってずっと研究を続けたい、という思いも同時に強くなってきて、どうしたものか、と考えています。。やっぱり博士課程に進学すると、高校や大学を出て新卒採用される、という社会の王道の生き方ができなくなりますし、今のところ修士卒で就職に傾いてはいますが、、、。
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2019年07月07日

シャモとレンコン畑(田中幸太郎)

 珍しく写真集の紹介を。田中幸太郎さんは、花火を被写体に体に密着させたカメラを動かして撮った抽象的なアクションペインティングで有名な方です。朝日新聞の出版局でルポルタージュ写真を撮っていたこともあるらしいのですが、そうした中で河内地方に魅せられて河内の民衆の写真を撮りあつめたのが、この写真集。河内に惹かれるあまり大阪市内から枚方に移住したそうです。

 現在河内地方は大阪の後背地として工業地・住宅地として大いに都市化が進んでおりますが、1960年代前半当時はまだまだ農村風情を強く残しており、全然違う風景に驚きを感じます。
 柏原の太平寺・大県・安堂あたりの写真をみると、それぞれの集落がぶどうの海に浮かんでいるようで、当時のぶどう生産の盛んさを思います。現在新興住宅のたて並んでいるところはもちろん、集落の道や納屋の上にまでぶどう棚がつくられています。
 記録写真と面白いところといえば、「大阪のチベット」という題で柏原市の堅上小学校本堂分校がうつされているところ。昔ながらの寺子屋のように、生安寺の境内で数人の児童を相手に授業が行わている様子が撮られています。現代でも多集落から隔絶したところに20戸ほどが暮らす山間の小集落で、もう分校は閉校し、村内に児童もおらず、こうした様子が記録されているのをとても興味深く感じます。

 表題ともなっている「シャモ」ーー軍鶏は、一意には当時八尾のあたりで闘鶏に熱中する人々の写真を撮っていたところから来ているのでしょうが、ある意味これが河内人の気性を表してもいる気がします。私自身河内柏原の旧農村で生まれ育ちましたが、イメージで思い浮かべるような「河内弁」を聞いたこともありませんし、周りにも荒くたい方が多いと言った印象はありません。河内内の地域差や社会階層差のような違いはあるかもしれませんが、当時の河内風情が失われて久しいこと、河内に長く暮らしながらそれに触れることができないことを少し寂しく思います。

 私はあまり写真芸術への造詣が深くないのですが、ここまで述べてきたような記録的、社会的な意味合いを抜いても、心惹かれる写真が多かったです。
 こうした写真は、民衆写真、民俗写真というのでしょうか。あまり撮影者に意識がゆくことがなく、普通の暮らしが切り取られている感じがします。
 私たちは、生活して行く中で、空間に、世界に意味を刻み続けています。普段はそうしたことに気づくことはありませんが、このように、写真で時間を寸断することを通して、その様が明確に可視化されるような気がします。活気ある生のリズムが写真の一枚一枚に刻まれているようで、素敵です。
 現代では三次産業化や情報化が進み、何をするにも多くの媒体が我々と世界の間に介在するような感じがして、世界を直接経験することができなくなってきているような気がします(もちろん、その媒体も世界の一部には違いないのですが)。1960年代当時の、農業や手工業の時代の営みは今よりも生きている感じがして、なんともゆかしく思います。
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2019年02月04日

いけばな 花の話を聞くとき(熊野寿哉)

 小原流の華道家・熊野寿哉さんのエッセイです。
 私は専門で空間論を勉強しているのですが、庭園を巡ったり授業で広場の計画を考えたりするうちに、空間の美、特に植物によって構成される空間の美について、もっと深く考え、感じてみたいと思うようになりました。華道は、空間の美の実践の一つの形、様式であります。そんなわけで華道を習いたいという思いが募ってきているさなかであります。
 それで図書館で手にとったのが、この本。蔵書の多い京大付属図書館においてもあんまり華道にまつわる本はなく、数少ないうちで一番入門書に近そうな本がこれでありました。
 はじめに生け方の様式が短くまとめられていて、それに続いて植物ごとの、いけばなの写真とエッセイがついているという構成。日本語と英語が併記されています。
 この本を読むだけで、華道の様式や作法の一通りがわかるわけではなく、入門書というよりも、あくまで軽い読み物といった感じです。それでも、華道の美の魅力はよく伝わってきますし、エッセイも文学的に素晴らしいというわけではありませんが、すっと入ってきて読みやすく心地よい。読んでいて華道への思いは高まってくる本でした。
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2018年01月03日

20歳の原点(高野悦子)

 今月7日、私は20歳になります。そんな私に後輩が貸してくれた一冊がこの本。立命館大学の学生であり、学生運動の渦中の中自ら命を絶った高野悦子さんが、亡くなった歳、すなわち20歳の間に書いた日記です。
 高野悦子さん。旧地主の家に生まれ、京都の大学に通っている学生というのは私と同じ。しかし、時代も、さらにそれに規定される性格の表れも私とは全然違っています。

 彼女が学生時代を過ごしたのは学生運動の時代(1967−1969)です。近代資本主義への埋め込みから脱そうと試み、「個」というものを意識した時代。場所や歴史のしがらみから抜け出し、平等な条件のもと自由な個人を求めた時代とも言えます。この本を読んで、衝撃を受けたのは、高野さんのそうした思考のあり方です。自己に、他人にこうまで強い興味を持ち、内省的に思考しているのだ、ということに強く驚かされました。

 私自身はというと、生まれた時から、ある程度自由主義に解放された身であり、むしろ何らかの文脈の中に自己(同一性)を見出すようなーーひょっとすれば、文脈に自己を埋め込みたがるようなーー思考をしているような気がします。その文脈というのは、実家の持つ歴史(性)・文化(曽祖母の早逝で50年前と比べかなり平準化・変容したものでありますが)であったり、カッコ付きの「郷土」「ふるさと」ーーすなわち、柏原と周辺の王寺、三郷、河内長野など)ーーであったり、大学やサークルで通う一乗寺、吉田、雲ケ畑の学校/地域社会であったり。
 大学で地理学や都市論を学び、最近では社会学に興味を持っているように、人間を取り巻く社会の文脈について、私は強く興味を抱いています。しかし、それらを構成しているーー同時にそれらに構成されているーー「個」としての人間それ自体については、これまで興味があるように思い込んでいましたが、実はあまり興味がないのかもしれない、と思いました。
 私自身の行動ーー利己行動・利他行動も、「誰か」特定の人のためと思ってしていることのように思い込んでいましたが、よくよく考えてみれば、イエ、地域社会、クラブ、学問と言ったように、社会文脈の枠組みがいつも念頭にあるように思えてきます。

 高野さんと私の思考の違いは、モダニズムーーポストモダニズムのような「時代」に規定されたものであるのかもしれませんが、そう納得しつつも、高野さんが個人としての自己を、他人を、あのようにまで思惟しているのだということはかなりの衝撃でした。自己内省もそうですし、恋愛意識の記述もそうですし、文のあらゆるところにそれがみなぎっている気がします。
 現代に生きる自分の周りの人は、どこまで自己/他人のことを考えているのでしょうか。周囲の人たちーー個人!ーーがもし高野さんほど自己や他者のことを考えていたら、と思うと、怖くて仕方ありません。私自身がわかるのは私自身の思考だけ(果たして、それもわかっていると言えるのかどうかは怪しいのですが…)。このようなことを考えていると、これまで思惟の対象としてきた、個人の集合たる社会が、寸分も理解していないのに、一部を解き明かしたかのように思い込んで陶酔に浸っている私をあざ笑う、得体の知れない怪物のように思えてきます。



 
 この一冊の本を読んで、このような思いを抱くのは、私が私なりの背景ーー文脈ーーを持っているからかと思います(またこんな考え方をしている…)。高野さんも、日記を読んだ人がこのような感想を持つとは思わないでしょう。
 この文学作品は、日記という性質上読みやすいわけでもなく、物語としては面白いと言うわけではありません。しかし、読む人の心に何か及ぼすものがあるのは確かだと思います。読む人読む人の文脈に応じて、それぞれ違う感情を与えるのだと思います。



ーー独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。



 50年前、同じ京都という場に、同じ大学生・ワンゲル部員という立場で、しかし、全然違うように考え、行動し、生きていった女性の胸の内に触れたこと。私自身の考え方、生き方というものを相対化できた気がします。
 ひょっとしたら、この日記は、私にとっても「20歳の原点」になるような気もします。独りであること、未熟であること。私は孤独を感じるがゆえ、社会の文脈に埋め込まれようとしているのであり、そのように向かっていく性格・思考・行動はやはり無骨で粗だらけ。ーー独りであること、未熟であること。私にとって、この言葉から引き出される意味は、彼女とは全くちがうものであります。ーーだけど、それでもやっぱり、どこか通じるところがある気がするのが不思議です。
 20歳になる記念に読んだ本に、とてもふさわしい一冊でした。


 最期の詩が、心に残りました。はじめの部分だけですが、引用しておきます。
ーーーーーーーーーーー
旅に出よう
テントとシュラフの入った
ザックをしょい
ポケットには
一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい
春の雨がよい
萌え出でた若芽が
しっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく……
posted by みさと at 22:55| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

外道クライマー(宮城公博)

 宮城公博さんの本です。私がワンダーフォーゲル部で行っている「沢登り」という行為。それを極限まで追求している宮城さんの体験談が書かれています。那智の滝登攀(失敗)、タイでの50日近いジャングル探検(連続遡下行)、台湾・チャーカンシー初遡行、称名滝冬季初登攀……。軽妙な文体で色々な意味ですごい記録が盛りだくさんです。
 宮城さんはワンゲルの先輩たちと考え方がどこか似ているなー、と思いましたが、ワンゲルの先輩たちがこれを読んで大いに影響をうけているのかもしれません。私自身は、宮城さんをすごいな、とは思いますが到底こうした思考になることはできないな、と感じました。

 解説で「山登りは反社会的な行為」だということが書かれているのですが、それを読んで色々と考えさせられました。命を危険にさらして、藪を漕ぎ、岩や滝を上り、泥つきにしがみつく。そこにはほとんど生産性なんてない。大人には「なんでそんな危ないことを」と後ろ指を指される。多くの山ヤ、沢ヤはそれを気にしないのかもしれませんが、私は、そう言われると胸が苦しくなります。社会の矩に従うこと、社会のためになることを旨として(青臭い上に、そうできているかは甚だ怪しいことですが)生きてきた私には、そうした非難に抗弁する術を持ちません。そういわれるたびに、それどころか、下界で日常生活を送り、さまざまな人と触れ合っているだけで常に「沢をやめようか」という思いが心に芽生えてきます。
 一方で、社会的通念へ反発する人への憧れが心のどこかにあるのも確かで、沢登を純粋に楽しいと思ったり、そこでさまざまなこと(生の実感や新たな自然観など)を得たりしていることも事実。実際に沢に行くと、沢を続けたいという気になります。
 こうした葛藤は沢をやる限り永遠に続くのだろうな、と思います。冒険家への憧憬はありますが、自分は冒険家にはなれない。

評価:A
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2017年08月03日

街を変える小さな店(堀部篤史)

 恵文社一乗寺店店長・堀部篤史さんの本です。京都市左京区内にある様々な個人店を紹介しています。
 左京区は現在私が生活の拠点としているまちなのですが、紹介されているお店の中で行ったことがあるのは恵文社と出町ふたばだけ。(恵文社は下宿のすぐ近所ということで通っていたり、出町ふたばは友達がバイトをしていたりしますが…)
 ほとんど喫茶店で気分転換したり、飲みに行ったりすることもなく、学校と下宿、あと数少ないお店(ほとんど定食屋)のルーティンで生活しております。下宿を初めて一年弱が立ちますが、左京区という町にまだなじみ切っていないような気も。
 町と深く結びついた、紹介されているような店々を訪ねてみたいな、という気持ちになりました。(そこを目的地として消費しにくというのはこの本の趣旨からは外れているような気もしますが^^;)

評価:B
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2016年08月14日

死者は還らず 山岳遭難の現実(丸山直樹)

 丸山直樹さんのルポルタージュです。山岳遭難の状況からさらに踏み込んでその背景となる心理状況にまで踏み込んで、事故の原因を考えています。私自身、大学のワンゲルで沢登りをしているため、かなり身につまされる内容でした。自分は死ぬほどの危機一髪、といった経験はまだありませんが、少し滑落しかけたことや一歩間違えば20メートル下へ真っ逆さまというところを木の根をつかんでトラバースしたことはあります。ああいう時、やけに冷静なんです。死ぬ時は「ああ、死ぬんやな」ってあっさりと死ぬんだろうな、と思いました。
 一番ゾッとしたのが、遺族の章。自分が死ぬことは諦められたとしても、自分が死んだ後家族・親族や友人に迷惑をかけると思うと絶対に死にたくないと思います。

 このルポを読んでいて、筆者が事故の死者や同行者を散々にこき下ろしているのがやけに目につきました。読んでいる最中筆者の文章にかなり苛立ちながら読んでいました。後書きによると、筆者はできるだけ真の原因を追求したいとしています。その上で、自分の意見を率直に、あるいは読者にインパクトを与えるため計算して強く書いたとしています。このような態度を通して、読者に遭難について真剣に考えてもらいたいというのが筆者の意図だそうです。私は腹が立ちながらも、それならばその作戦は私に関しては成功しているな、と思いました。
 作者の(文章から伝わってくる)人格は到底好きにはなれませんが、登山者や登山者の家族はぜひ読むべきルポだと思います。

 読了後一月近く経っての感想なので、ただでさえ下手な文章が一層ひどくなってしまった気がします。感想がうまく伝わっていないかもしれませんが、何卒ご勘弁を。

評価: A
posted by みさと at 09:28| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする