2019年08月21日

都市計画の世界史(日端康雄)

 今回は都市史のおさらいをすべく、この本を読みました。日端康雄さんは慶應SFCの先生で都市計画の専門家ですが、本書では都市史の概説が簡潔にまとめられています。
 1.城壁の都市、2.都市施設と都市住居、3.格子割の都市、4.バロックの都市、5.社会改良主義の都市、6.近代都市計画制度の都市、7.メトロポリスとメガロポリスという章立てです。なんとなく歴史に沿って並べられてはいますが、都市の成り立ち、形状ごとに章を作っています。純粋に歴史通りに並べられるよりも、それぞれの観点において比較ができてよかったです。

 民主主義の基盤となったギリシャのアゴラ、「周礼考工記」をモデルとした長安の都城制、平安京と平城京の町割りの違いと変遷、公衆衛生の悪化を背景としたオースマンのバロック的なパリ大改造、自律的なユートピア社会主義的でありながらも実現にいたり後代の都市計画に多大な影響を与えたハワードの田園都市構想、各国の近代都市計画の形成に至るまで、都市史として抑えておくべき要点は網羅し、整理されていました。。あとはアメリカにおける都市美運動、オルムステッドのセントラルパーク建設、パークシステムあたりの緑地計画関係も、田園都市との文脈でもう少し把握したかった気もしますが、そこまで行くと都市計画史というより造園史の領域になってしまうのでしょうか。

 概説書だとどうしても羅列的になりがちですが、わかりやすくまとまっていて読みやすく、勉強になりました。都市史の全体像を抑えたい方はぜひ。
posted by みさと at 20:44| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月20日

近代建築史(石田潤一郎・中川理編)

 近代建築史の概説書です。またか、といった感じではありますが、大学で勉強しなかった割に、頻出なので、これでもかって感じで読んでます。さすがに三冊目になると、大分知識が身についてきたような気も。これまで読んできた他の二冊(鈴木博之さん、大川三雄さん)の本よりも、分量が多いのもあってか内容は詳細であった印象。レイアウト的には鈴木さん、日本近代建築史も詳述しているのが大川さん、全体的に一番詳しいのがこの本、といった感じでしょうか。)

 最近、生活と芸術の交わりについて、心惹かれます。昔から農村風景や民俗学が好きでその気があったのですが、近代建築史を勉強していると必ず出てくる「アーツ・アンド・クラフツ運動」が心に引っかかります。
 この運動は、産業革命による大量生産の粗悪な商品が出回る時代背景のもと、中世における建築と労働のあり方に芸術や建築の理想を求めたジョン・ラスキンの思想が基礎となり、ウィリアム・モリスらがその思想を実践し、職人的に作られた工芸品的芸術を創作・称揚する所から広がって行きました。多くの中世的な職人ギルドが結成され、展覧会の開催にまで至ります。この運動は近代主義への反発という意味も含みながら、アール・ヌーヴォーやウィーン分離派の建築に繋がり、様式建築から脱した近代建築の源流となりました。日本においては日用品の中に「用の美」を見出す柳宗悦の民芸運動に繋がってゆきます。
 院試が終わったら、ラスキンやモリス、柳宗悦、加えて今和次郎、路上観察学会あたりの思想や活動について本を読んで行きたいと感じます。やりたいことがどんどん増えて行きますが、院試勉強もいろいろなことに対する前提知識ともなるし、知識欲も湧いてくるし、結構役に立つんだな、とも思います。
posted by みさと at 22:17| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月19日

風景学(中川理)

 二回生の頃に読んで、風景について興味を持つきっかけともなった本であります。中川さんは京都工芸繊維大の建築史・都市史の先生です。風景や景観について蓄積された議論の整理を試みた本で、院試勉強にも役にたつかな、と思って再読しました。当時よりも大分知識が増えたこともあり、この本自体の理解も進みましたし、風景論についての頭の整理にもなりました。中川さんの整理においては、近代の主客二元論に関する認識の変化が風景論の根底にあります。恥ずかしながらあまり哲学や思想に関して詳しくないのですが、これを機会に、(院試が終わったら)哲学の勉強も重ねたら楽しいだろうな、と感じます。

 院試勉強のため、頭に入れたい知識を詰め込んだため長くなってしまいましたが、ダイジェストにしてみました↓

 本書の議論に基づくと、「風景」というものは、デカルトのように主体たる人間と客体客体たる自然を分離して考えるようになった近代西欧において生み出されたものであります。自然は合理的秩序に支配され、客観的に理解することができるものだという思潮が「風景」の発見の根底にあります。「風景」という言葉には、審美的なニュアンスが含まれますが、人を取り巻く自然、環境、そう言ったものを美をもって客観的に認識するようになるのです。17世紀、クロード・ロランらによって、神話的主題の背景ではなく、風景そのものを主題として描く風景画が誕生したのもこの動きに連動したものであります。西欧の場合、「サブライム」や「ピクチュアレスク」という美意識の普及がこれを支えます。
 風景の発見の例として、しばしば山岳が取り上げられます。古くは山岳は人々にとって関心がなく、ただ利用するもの、あるいは利用すらできない忌むべき地として認識していましたが、近代になるとポール・セザンヌの絵に描かれたり、京都の東山が風致地区に指定され、美を持って認識されるようになりました。

 中川氏は、「風景」とは、見慣れた眺めが未知のものとして見え始めた時に生ずる個人的な美の体験が共同化され、美としての評価が広く共有・定着したものと定義しております。この共同化はかつては地縁共同体で行われていたものでありますが、国民国家形成にともない、ナショナル・アイデンティティを発揚する際に利用されるようにもなります。志賀重昂の「日本風景論」がその最たるもので、 日本の山岳風景を地理学の観点から讃えることで、日清戦争前後の国威発揚に一役を買います。
 国土の眺めに価値を共有化する動きには18世紀末から19世紀にかけて欧州各地で展開されたロマン主義の思潮が関わっているとも述べております。ロマン主義は当時の啓蒙主義・産業革命の反動として失われつつある自然に価値を見出そうとしました。ドイツではルドルフという音楽家が失われつつある自然を守ろうと郷土保護運動を立ち上げます。しかし、こうした自然保護はあくまで風景という視覚的現象を守ろうとしたものにすぎず、環境倫理に基づくそれは19世紀後半各国で始まる国立公園制度を待たねばなりません。

 人々の住空間を風景としてみる際、しばしば歴史が審美基準として取り上げられます。しかし、この時取り上げられる歴史は、しばしば讃えるべきところだけを取り上げた偏ったものとなり、人々の生活の中で生成される歴史は等閑視されます。この自体に対して疑義を掲げたのが、ジェーン・ジェイコブズであり、ドロレス・ハイデンであります。

 風景の誕生が近代の主客二元論に基づくものであったということは前述の通りですが、これは同時に環境を人が支配すべき対象であるという認識も生み出します。客観的な正確さを持って環境を捉えるために、近代では視覚が他の感覚を凌駕して行きます。透視図的、遠近法に基づく絵画表現がその芸術史上での現れであります。
 遠近法的な眼差しは近代の人間の対象を知り、支配したいという欲望にも結びついて行きます。「風景」という「精神の世界」と並行して支配的・操作的な「物質の世界」が生み出されていくのです。建築の世界でのこの現象がル・コルビュジェをはじめとするモダニズムであります。モダニズムは世界の合理化という普遍原理のもと、汎世界的な、均質な、自由な空間が形作られて行きます。

 こうしたモダニズムは眺めから「意味」を奪っていったとされます。しかし一方で、「意味」を回復しようという試みもモダニズム勃興期より見出され、19世紀末のアメリカ「都市美運動」の中にも見られます。その中でもオルムステッドはいち早く都市における自然美の重要さを主張し、衛生状態の悪化が懸念されていたニューヨークにセントラル・パークを設計します。彼はランドスケープアーキテクチャの父とされています。
 セントラルパークでは、イギリス風景式庭園の「ピクチュアレスク」の美意識が参照されましたが、19世紀に歴史主義建築が流行したのも、都市に「意味」を与えようとする試みの一つであると考えられます。
 また、コルビュジェの「300万人のための現代都市」には樹木が多く描かれるように、モダニズムの建築家たちも「意味」の回復を試みている様子が見られます。彼らは建築単体のみならず、都市の設計にも手を出しています。「ブラジリア」や丹下健三の「東京計画・1960」がその例でありますが、こうした作品群では都市の構造に中心性や軸性が与えられ、「意味」の実現を試みています。しかし、こうした試みは都市をあまりに固定的なものとして捉えていると批判され、若手建築家集団「チームX」によって批判がなされ、日本においては1960年代にメタボリズム運動が生じます。建築家個人の表現行為では、建築家個人のものにすぎず、社会的に共同される「意味」を作ることにはなかなか至らないのです。

 近代社会の進展とともに、地域文化は広く均質化していくようになり、価値を共同化するための基盤となっていた地域共同体の無力化をも招きます。そこで、共同体に依存しない、汎世界的な、普遍的で客観的な価値が求められるようになります。それが、「景観」であります。もともと「景観」という語は植物学者の三好学がドイツ語の「Landschaft」に与えた訳語で、地表の空間的まとまりを表現する場合にも用いられる広い概念を示す言葉でありました。それが、戦後、特に1980年代以降、眺めを都市計画的課題としてコントロールするものとして扱うようになって「景観」という言葉が多く用いられるようになりました。
 「景観」は快適性をもって客観的に評価されますが、その著名な例としては1960年ケヴィン・リンチによる「イメージマップ」の手法が挙げられます。リンチは都市のイメージを形成する物理的要素としてパス(移動路)、エッジ(境界)、ディストリクト(地区)、ノード(結節点)、ランドマーク(目標)が定義され、それらの配置や関係のあり方によりイメージマップを作成し、それによって都市を評価しようとしたのであります。
 また同時期より土木工学から「景観工学」が捉えられ、近代主義で排除されてしまう眺めの価値を、科学的に価値づけることが試みられ、土木建設や都市計画などに応用されていきました。1970年代以降各地で発展する「景観政策」にも取り入れられて行きます。
 しかし、このような主観性を排除した評価は眺めの持つ歴史性などの文化的価値をすくい取れないのではないかという批判も相次いでいます。例えば、歴史的建造物を建て替える際、外観だけ旧来のまま、中身は現代的な工法を使った時、この建造物のオーセンティシティは失われているのではないか、という批判であります。


 近代都市計画によって眺めから失われた「意味」の回復について、人々の生活に注目しようという考え方があります。古くは柳田国男の民俗学やドイツ・ザーリッシュの森林美学に見られますが、1960年ジェイン・ジェイコブズの、都市における人々の生活から生成される多様性・混沌性・複雑性の主張にもこれは強く現れております。
 近代都市計画を乗り越えようとする観点から、生活の眺めを「美」として位置づけるのではなく、計画に活かせるよう客観的に価値づける試みがなされたのが、1960年代以降行われる「デザイン・サーベイ」であります。デザイン・サーベイとは、ある地域に着目し、その物理的構成要素を実測・図面化し、インタビュー調査などで補完することで、フィジカルな個性要素を生活・慣習・歴史と行った文化的な要素で分析しようとするものであります。またデザイン・サーベイは屋台や木賃アパート、スラムなど従来評価されてこなかった空間をも調査し、快適性だけで評価される「景観」ではない、人々の生活、生産、地域の共同性の中から現れる「生活景」という眺めの価値づけの創造につながりました。この流れは、建築史学の中で様式史的な分析ではなく、群として建築をとらえ、都市の生成に関心を向ける「都市史」の誕生とも連動しています。

 近代社会が奪っていったのは眺めの「意味」だけではありません。その土地や風土を他とは区別して成り立たせる意味の総体である「場所」をも奪ってゆきました。エドワード・レルフは近代社会によって「場所」が喪失した状態を「没場所性」という概念で示しています。レルフは「場所性」に注目することで風景や生活景の再生の可能性を指摘していますが、具体的な提案には至っていません。一般市民の生活の歴史に計画の根拠を見出そうとしたドロレス・ハイデンの提案は、この「場所」に注目したものであり、かつ実践的な方法論を説いたものであると評価をすることができるでしょう。
 レルフは没場所性の舞台として郊外をあげています。郊外に居住する人は都市との関連だけで、どこでも良い所として住み着き、それまでの農村としての歴史を無意味化してしまいます。郊外住宅地においては、イギリスのガーデン・サバーブに見られるよう、ピクチュアレスクな造詣を持って、眺めに「意味」を人工的に与えることが試みられていました。そこに建造された住宅も、様々な歴史様式を持って建てられましたが、規模的な制約もあってそれらは本格的なものにならず、「〜風」の、「まがいもの」の意匠にすぎませんでした。アメリカにおいては、退役軍人を顧客に建造されたレヴィットタウンでは、画期的な量産システムで戸建て住宅が大量に作られ、同じ規模の同じ住宅が並ぶ眺めが現れます。
 こうした近代主義的な画一化した眺めの中で、「意味」を取り戻そうと「個性」を主張する住宅が現れてきます。日本において現れた「ショートケーキハウス」は過剰にまでデザインがなされており、眺めを無国籍化して行きました。この事態の本質には、生活の均質化の反動と地域社会の崩壊があると考えられます。国家の一元的管理と「個」の家庭の間にあったはずの、価値を共同化する上で必要な地域社会がなくなっているのです。

 眺めの「意味」を人為的に作り出そうとする営みは、架空の「場所」を作り出そうとする営みにも及びます。ウォルトディズニー社の開発したセレブレーションの住宅地がその例で、そこではあらかじめ伝統的なデザインがなされた人工の風景が準備されています。さらに、ディズニーランドのように、ショッピングモールや遊園地にも、テーマ性を持った、人工の「風景」が広がっています。
 しかし、こうしたところでは実態としての人の営み、「風土」は存在しえません。ボードリヤールは、実存する指示対象を欠いた表象やイメージを「シミュラークル」という言葉で表しています。このようなテーマパーク的な場所は、「場所」を欠いた、シミュラークルな「風景」にすぎないのです。
 ここにおいて、風景の公共性の問題が生じます。シミュラークルな風景は、その意味を共有する者にしか意味をなしません。風景は見るものを限定できないという特質上、眺めを共有する地域社会の、生活空間から生成されることを必要とするのであります。「ディズニーランダゼーション」された公共施設では施設としての実態とデザインが関係を結べないのであります。

 繰り返し述べてきたように、近代社会はあらゆる対象を主客二元論において捉えようとしてきました。現象学はそのアンチテーゼとして現れ、人間は知覚対象をそのまま客体として理解しているのではなく、そこに現れる意味や価値として理解していることがフッサールによって指摘されています。続くメルロ・ポンティは、視覚は主体の一方的な働きではなく、見られる者からの働きかけでもあることと主張しています。
 このような思弁的な分野のみならず科学的なアプローチで二元論を乗り越える試みも生じてきます。知覚心理学のギブソンは、本来的に意味を持たない物質を捉えて人間が意味や価値を付与するという従来の考え方を批判し、「アフォーダンス」の理論において、環境の側、客体の側に価値が備わっていると主張しました。この考え方は、人間と環境は分離した存在では、一体としての生態として捉えられるという考え方に繋がります。
 二元論の乗り越えを都市計画の計画論で理論化を試みたのがクリストファー・アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」であります。「パタン」とは、特定の空間が経験的に持ちうる資質であり、そこで快適な生活を営むための前提条件・要求です。アレグザンダーはそれを文法(パタン・ランゲージ)によって組み立てることで、環境をデザインすることを試みました。アレグザンダーは、従来のツリー構造を前提とする都市計画における都市においては複雑さが等閑視されており、セミ・ラティス構造を持って都市を捉えることが必要だと述べています。「パタン」は個々人の主観に基づく価値と考えられる一方で、「場所」の経験によって裏付けられています。パタン・ランゲージは人間・環境を一体として捉える解釈として、画期的なものであります。
 この理論は、真鶴町の「美の条例」によって実践されています。ここで評価されているのは、土地や風土から切り離され客体化されることで発見される従来の「風景」ではなく、人格と不可分のものとしてある長めの価値であります。しかし、地域共同体の眺めに美を見出してきたのは従来外部の眼差しでありました。真鶴町の場合、内発的な試み出るがゆえに、住民の関心が薄いという課題があります。

 土地や風土が失われた現代、人間と眺めが直接的に関係を築いていることを指摘する試みも現れます。純粋階段のような、路上観察学会で見出される「物件」には生活への有用性も、歴史的な価値も、風景としての美もありません。ただモノと観察者が純粋な関係を築いているのです。今和次郎の考現学は、生活の断片の徹底的な記録・観察から風俗を明らかにしようとしています。考現学のアプローチするモノは風土や土地の根拠から引き離されたモノであり、そのモノにあらかじめ備わった価値を見出そうとしているとも言えます。
 こうした試みは人間と眺めを生態的に結びついたものとして捉えようとしている一方で、観察する主体の意識は依然残されており、二元論を完全には乗り越えられていません。オギュスタン・ベルクは、不可分であったはずの風土との関係を乗り越えた風景を「実景」という言葉で表しています。社会科学の発達は、精神分析の「無意識」の発見のように、次第に主体をも認識の対象として捉えるようになります。「実景」において、主体はそれ自身も客体としての眺めとして風景になることを求めるようになってゆきます。ここにおいて、風景をまなざすのではなく、風景と一体になりたい、包み込まれたいという欲望が現れてきます。このことは、原寸大で町や家を再現した歴史資料館にも現れていますし、シミュラークルの風景も「実景」の一つであります。
 この「実景」は「場所」の代償であり、消費財に過ぎないと判断することもできますが、ベルク自身は風土を乗り越えた「実景」において、「地球」が次の風土として存在していると述べています。これは大竹伸朗が「日本景」で表現したもので、眺めと自分自身がいかなるものも介在しないで直接に重なって捉えられる状態を指すと考えられます。これは、旧来の日本にあったような、人間と自然が直接に重なって捉えられる美意識とも通底するところがあると考えられます。
posted by みさと at 17:52| 奈良 ☔| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月12日

近代建築史(鈴木博之編著)

 近代建築史の教科書です。例によって、院試勉強で読みました。西洋近代、日本近代、現代建築の三章構成で、西洋については新古典主義の時代から、日本においては開国から、2000年代に至るまで広くざっくり近代の建築史が抑えられています。内容については一般的なものなので特別取り上げることはありませんが、文章は簡潔でわかりやすく、写真の配置も適切で、以前紹介した同内容の本よりも読みやすかった印象。入門にはオススメです。
 2008年初版の本ですが、2000年代に入るところまでまとめられているのがすごいです。現代の建築の潮流なども建築史からの研究が進んでいるのでしょうか。今なら、2010年代までまとめられたりするのかな。
 院試勉強系の概説書にありがちで味気ない紹介で恐縮ですが、今日はこの程度で失礼します。
posted by みさと at 20:33| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月25日

【図説】近代建築の系譜(大川三雄他)

 大川三雄、川向正人、初田亨、吉田鋼一、関東の建築史学者による近代建築史の概説書です。
 日本、西洋に分けて図版たっぷりに概説がなされています。この一冊で近代建築史の大きな流れはざっくり理解できますが、古代から近代に至る西洋建築史について多少の予備知識があった方が(当然ではありますが)理解は進むと思います。本書においては日本、西洋の順になってはいますが、時代の流れを踏まえると西洋、日本の順に読んだほうがわかりやすいかもしれません。
 近代建築については、色々な本を読んだりしているうちに、ちらちらと接してはきたのですが、体系づけられた本を読んだのは初めてでした。歴史主義、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、モダニズム、ポスト・モダン…なんとなく、雰囲気だけ知っているような単語が、歴史の流れに沿って抑えられて勉強になりました。

 とりわけ戦後、形骸化したモダニズム理論を批判が巻き起こる中で生まれてくる構造主義の建築ーー大きな形態と小さな形態、内と外、個と全体などの次元において各単位空間が緊密な関係を結ぶようなーーは、思想と建築が結びついているのがよく感じられて面白いです。アルド・ファン・アイクの市立孤児院「子供の家」や、ヘルマン・ヘルツベルハーの「セントラール・ベヒーア保険会社」などがそうした建築の代表格であります。

 またこうした構造主義への反省から現れたポスト構造主義の思潮も建築空間によく現れています。デリダはプラトンのイデア界のような完全な知の世界を、言葉によって構築された、真実の世界のシュミラークルとしての形而上学を批判します。言葉自体多くのズレを内在する上に、世界は言葉によって写し取れる完結した静的構築物ではないと批判を行い、形而上学を脱構築を主張するのです。
 建築家グループ「コープ・ヒンメルブラウ」はこの主張を受け入れ、目を閉じ、できるだけ意識を解き放って、トレーシングペーパーの上で手を自動記述器のように動かして、言葉からも意識からも放たれた自由な境地での空間の生成を試みます。そうして生まれたのが「オープン・ハウス(マリブの家)」「ルーフトップ・リモデリング」であります。であります。オランダ構造主義者は正方形という格子状組織の上に並べながら無意識の層に潜む「祖形」を探ることで水平・垂直の構図が支配する静的で構築てきな建築を生み出しましたが、脱構築主義者たちは建築と都市を単位すら識別できない連続する流動体として捉えています。相互に異質な流れが結合・反転・分離して一回限りの組み合わせで生み出される多数多様体「リゾーム」として建築・都市を捉えているのであります。
 建築は社会を写した「テキスト」としてであり、また人々は建築を「テキスト」として読むことで新たな意味の生成を試みてきました。しかし、こうした「テキスト」は水平・垂直の構造に規定されて存在するものでもありました。ピーター・アイゼンマンは、建築が「開かれたテキスト」となることを試みます。彼の建築では、柱や壁、梁、窓や階段に見えるものが幾何学的関係から直接導き出され、抽象的に空間を秩序づけるためだけに存在します。東京都江戸川区にある「布谷ビル」にそれはよく現れています。

 ポスト・モダン建築についての関心が大きく高まったので、余裕ができれば、もっと詳論を書いた本も読んでみたいところ。デリダ、ドゥルーズ、それからリオタール、フーコーなどの思想も知りたいと思いながらもどんどん月日が過ぎてゆきます(春にギデンズについて、少し勉強しましたが)。知りたいことが多過ぎて、時間が全然足りない。なんていうものの、いまは大学院受験の勉強をしないと、と建築や都市計画関係の概説書を読み漁っています。
posted by みさと at 14:47| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月12日

西村幸夫 都市論ノート(西村幸夫)

 西村さんは東大の都市工学科を出て都市計画を専門とされている方で、この本は景観・まちづくり・都市デザインなどに関する小論文を多数まとめたものであります。例によって院試勉強の一環で読みました。
 トピックは多岐に渡りますが、印象に残ったものをいくつか。

 近代都市計画は、他の多くの科学技術と同じように、西欧の先進国で生まれ育ちました。土地利用計画やそれを元にした地区詳細計画を軸としたプランニング・コントロールというシステムも、やはり西欧先進国の発達した社会・統治システムがあってこそのものであります。行政機関が迅速かつ公正な働きをしなければならないのはもちろん、違反を罰する警察権力が機能すること、地図や統計情報などの基本的情報が整っていること、地区の変化が当局が把握できる程度に漸進的であること、さらには民主的コントロールの作用する近代市民が形成されていることなど、先進国に暮らしていては当然のあまり普段意識しないようなことが、都市計画を実施する上では必要なのです。
 都市間のネットワークの在り方やその都市の社会構成、空間構造など、風土や歴史による差異があるため、汎世界的な都市計画はありえないということは自明だと感じてはいましたが、こうした発達段階による政治学的差異があるということは、普段日本国内ばかりをフィールドにしていることもあって考えが及ばず、はっとさせられました。

 後半ではそれなりに分量をとって歴史的環境保全制度の歴史をまとめられているところがあり、院試勉強的にはそこが大変参考になりました。
 産業革命や地域開発の反動のように、1900年代前後より地域固有の古社寺や史跡、名勝を保存せんとする愛郷的な団体の設立が相次ぎます。日光の保晃会や京都保勝会が有名なものであります。会の活動としては、古文書の買取や保存対象の維持管理のための義援金の拠出が目的とされていました。こうした愛郷運動は、後には国粋主義と結びついて行くことにもなります。
 この動きに呼応するように、植物学者・三好学らの建議によって1911年史蹟名勝天然記念物保存教会が設立されます。1919年には史跡名勝天然記念物保存法が成立し、こうした動きが法制度として確立します。この法では、人工物と自然物を同列に保護対象にしているところに特徴があり、また、学術的な評価というよりも、風致を守ることで「国体を維持し国民性を涵養する」ナショナリズム的な色彩の強いものでもありました。
 今卒論で、ある名所の保勝活動を調査しているのですが、このあたりの歴史は、研究の前提知識としても役に立ちそうに思います。
posted by みさと at 11:27| 奈良 🌁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月20日

【第二版】地域共生の都市計画(三村浩史)

 院試勉強シリーズ。昨年授業の教科書になっていたのに結局使わなかったものなのですが、折角なのでこの機会に読みました。三村さんは京大建築系の都市計画学者で、西山夘三の門下です。
 内容としましては、都市計画史を踏まえた上で、マスタープラン、土地利用計画、緑地、交通、景観基本計画といった都市のマクロな視点のを紹介し、地区計画や建築規制のミクロな話題に移る、というもの。広く浅く都市計画全体を抑えていますが、計画・制度の基礎的紹介が中心の印象。独自の観点があるというよりは、普遍的な、教科書的な内容であります。図版が多く、初学者にはわかりやすいとは思いますが、多少都市計画の勉強をしたことがあれば新しく得るものは少ないかもしれません。復習にはなったかな。
 参考図書が充実しており、各分野・項目でおすすめの書籍もわかりやすいので、ここから先の勉強の参考にもなりそうです。計画史についてはもう少し勉強したいと感じます。
 院試勉強関係は教科書的な書籍が多く、感想も単調で無機質になってしまいがちですね。。
posted by みさと at 15:20| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月09日

図説 建築の歴史 西洋・日本・近代(西田正嗣/矢ヶ崎善太郎編)

 院試勉強第二弾。建築史を一通りおさえるのに良いよ、と言われて手に取りました。執筆者は京都工芸繊維大学系の先生方。
 私は西洋、日本の建築史ーーほとんど宗教建築ばかりですがーーは授業で一応習ったことがあったのですが、近代が全く知らない状態でした。内容は一般的なものでそう特筆すべきところはありませんが、何よりも図版を豊富に使ってわかりやすく書かれているので、基礎的な流れを抑えるのにはちょうどよかったと思います。日本、西洋については授業ノートを見直して、近代については、もう一冊くらい本読んでおきたいといった感じです。
 近代建築史に触れてみると、哲学の思想史的な勉強をしていたら、もっと面白いんだろうなぁ、とも感じます。「デコンストラクション」建築というものに初めて触れましたが、デリダに始まる脱構築思想についてろくに知識がないのがもどかしい。
posted by みさと at 19:27| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月14日

阪神間モダニズム(「阪神間モダニズム」展実行委員会)

 平成9年に兵庫県立近代美術館、西宮市大谷記念美術館、芦屋市立美術博物館、芦屋市立谷崎潤一郎記念館の四巻で開催された「阪神間モダニズム展」の公式冊子です。

 近代貿易港・神戸の発達と合わせた商都・大阪の工業化に伴い、大阪の環境は「七色の煙が出る」と呼ばれるほど悪化していきます。そんな中、上流階級を発端に、環境の良さを求めて郊外への住宅進出が始まります。その中心となった地の一つが阪神間。六甲の山脈と瀬戸内海に挟まれて温暖で緩やかながら地形の変化に富んだ阪神間は、健康地として富貴な大家や芸術家たちが多く住むようになり、神戸からの外国文化の流入もあり、独特のモダニズム文化を築いてゆきます。
 この本はそうした明治-戦前期における阪神間の文化を、建築史・文化史・美術史など多種多様な切り口から眺めて行くというものであります。私の研究室で今助教をされている藤原学先生も「阪神間の住居・素描ーー谷崎潤一郎の表現から」という題で寄稿されています。谷崎の描写をひもとき、阪神間郊外地の場所性・空間性の説明を加えており、非常に興味深い内容でありました。

 今年の頭に谷崎の『細雪』を読んで以来、阪神間で営まれる流麗な生活に憧れを感じていました。戦前から芦屋の某住宅地に、比較的近しい親戚が住んでいるのですがその立派な和館を思い出しながら、蒔岡家のような豪華で文化的な生活を脳裏に浮かべています。

 私の生まれ育った柏原も同じ大阪の郊外ではありますが、開発過程を始め、あらゆる点で異なっており、全く文化圏のように思えます。関西の地域性って、決して都道府県で分かれている訳ではなく、行政界よりも沿線の方がよっぽどそれに影響しているように思えます。

 近くても、なかなか行くことのない阪神間。また親戚を訪ねるのを兼ねて歩いてみようかな。本を読めば読むほど、行きたい場所が増えていきます。
posted by みさと at 14:42| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月16日

大阪の民家(児島祥浩/長山弘子)

 児島祥浩さんが大阪府内にある旧家の数々の写真を撮り、長山弘子がエッセイを付した写真集です。本が出たのは昭和62年、大阪府の職員機関紙『職員時報』に連載されたのは昭和39年から54年であるため、とても古い内容であります。
 撮影されたのは今から39〜54年遡り、現存しない民家も多いと思います。私の実家も掲載されているのですが、19年前に母屋が火事で全焼し、長屋門と蔵を除いて現存しておりません。このような特殊な事件がなくとも、都市圏では広大な敷地にかかる税金を払うのが大変ですし、山間部では就業難や生活の不便で転出への圧がかかり、現代古い家(屋敷・家集団)を維持していくのは極めて難しい時代になっております。

 この本の魅力は、資料として写真が取られてそれを解説する文章が書かれているのではなく、美的意識を働かせた芸術写真に知識とともに完成を働かせたエッセーを付しているところです。ただ建築の解説をするのではなく、人々の生活の染み付いた古民家の息遣いを感じ取っているのです。「記録」ではなく、「記憶」を綴った書であると言えるでしょう。
 偶然にも谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を並行して読んでいるのですが、これによってより日本文化の美を深く感じることができたように思います。日本民家は闇を深い庇を持ち、障子を通して仄かな光を室内に取り込んでいます。儚い光線にぼうっと浮かび上がる造形、部屋の隅々に折り重なった闇。白黒の写真がその陰翳の美しさをよく表現しており、通読を終えても何度も写真を見返してしまいました。

 街を歩いていて古く立派な民家を見かけると、心がきゅんとしめつけられる思いがあります。それは、単純に美しいものを見かけた嬉しさに加え、数少ない旧き時代の生き残りを見かけた興奮、それがこの先も続いていくことの厳しさを思っての悲しみなど様々な感情の綯い交ぜになったものであります。
 建物や土地には人々の記憶が宿ります。そっとその記憶に触れるときのセンチメンタルが私の人生のテーマではないか、とふと感じます。
posted by みさと at 20:39| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする