2020年03月17日

死者の書(折口信夫)

「した した した」という水音と共に闇の中に目覚めた滋賀津彦(大津皇子)と藤原豊茂の娘の魂の交歓を描いた小説。大和当麻寺の中将姫伝説を題材にとっています。
折口信夫は「まれびと」の概念で知られる民俗学者でありますが、国語国文学者でもありました。この小説の時代設定は古代であり、文章も現代の口語調でありながら古語が多数取り入れられています。舞台設定の詳細さにも筆者の古代研究がよく感じられます。
滋賀津彦が二上山に葬られていること、郎女が当麻行、、また二上山の谷間から仏が現れてくる様子などを考えると、大和の西方にあたる二上山(また、その向こうにある河内)は葬送の地、彼岸的な場所として描かれているようにも思えます。
この作品で魅力を発しているのは「した した した」「こう こう こう」「つた つた つた」と言ったオノマトペ。死霊を巡って不気味な感覚を催しそうなものの、不穏な感じはなく、土俗的な幻想性ともいうべき不思議な感覚があります。この感覚が、作品全体の魅力的な空気感を作り出している気がします。
私が読んだのは角川ソフィア文庫から出ているものですが、かなり充実した注釈がついているのが特徴です。普通に読む分には飛ばしたほうがわかり良いかもしれませんが、精読するにあたっては良い手引きとなりそうです。
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2020年03月04日

伊豆の踊り子(川端康成)

新潮文庫、収録作品は『伊豆の踊り子』『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』です。三月末に伊豆へ旅行に行こうと思って読みました。
『伊豆の踊り子』は伊豆を一人旅する学生と旅芸人との交歓の物語。この物語では、片時の一人旅を楽しむ主人公と旅を日常に生きる旅芸人、そして旅人を受け入れながら在地の日常を生きる宿屋や茶屋などの伊豆の住人という三者が交わる様が美しく、少し悲しく描かれています。旅芸人は華やかでありながらも低い身分とみなされる存在。主人公の学生は旧制高校生という上流階級でありながら「孤児根性」を抱えているという複雑さも持ち合わせています。
天城の茶店に雨宿りをするとき、茶店の奥の生活空間に「水死人のように全身蒼ぶくれ」の中風で不随の爺さんが炉端にあぐらをかいているシーン。グロテスクなまでの生活感が、旅の非日常の世界の裏には当地の、(旅人にとっては異界の)日常のあることを強烈に感じさせます。
こうしたやや暗い物語の舞台設定を持ちながらも、作品の中には爽やかな美しさが満ちています。
「仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一杯に伸び上がる程に子供なんだ」(p20-21)
「私の足もとの寝床で、踊子が真赤になりながら両の掌ではたと顔を抑えてしまった。彼女は中の娘と一つの床に寝ていた。昨夜の濃い化粧が残っていた。唇と眦の紅が少しにじんでいた。この情緒的な姿が私の胸を染めた。彼女は眩しそうにくるりと寝返りして、掌で顔を隠したまま布団を辷り出ると、廊下に坐り〜」(p24)
「そして少年の学生マントの中にもぐり込んだ。私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった(中略)何もかもが一つに融け合って感じられた。
 船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがポロポロ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」(p45)
 主人公も踊子も初々しく爽やかで、暗さを孕んでいながらも清々しいまでの美しさであります。


「彼女等は獣のように、白い裸で這い廻っていた。
 脂肪の円みで鈍い裸達ーーほの暗い湯気の底に膝頭で這う胴は、ぬるぬる粘っこい獣の姿だった。肩の肉だけが、野良仕事のように逞しく動いている。そして、黒髪の色の人間らしさがーー全く高貴な悲しみの滴りのように、なんという鮮やかな人間らしさだ」(p48)
『温泉宿』は、美しいようなグロテスクな、心惹かれる冒頭で始まります。温泉宿の女中や曖昧宿の娼婦達の生きていく様を描いた作品で、行楽地の下層階級を描いているという点で『伊豆の踊り子』とも共通点があります。女性達の生活は悲しさとたくましさを感じさせますが、中でも印象に残ったのが、お清という酌婦。病に臥せりながらも、曖昧宿や村の子供達に懐かれ、遊ぶことを楽しみに「土着」じみて生きています。彼女の癖は可愛がってやった子供の群れが、棺の後ろに長々と並んで山の墓へと登っていくという自分の葬式の幻を思い描くこと。しかし、お清は子供達の寝静まった夜にこっそりと葬られることになります。清く儚く描かれている様が、やけに印象に残っています。


『抒情歌』は康成の死生観を描いた随筆的小説として広く知られています。霊感を持つ「私」は「私」を捨てた後に死んでしまった「あなた」に語りかけるというあらすじ。「霊の国からあなたの恋のあかしを聞きましたより、冥土や来世であなたの恋人となりますより、あなたも私もが紅梅か夾竹桃の花となりまして、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらうことが、遥かに美しいと思われます。そういたしますれば、悲しい人間の習わしにならって、こんな風に死人にものいいかけることもありますまいに」(p140)という文章が何とも美しいです。


『禽獣』も印象的な作品。主人公は動物の愛玩を慰めとしながらもその眼差しにはある種淡々とした冷酷さ、空虚さが感じられます。
「この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩というものの実感が分らぬげに見えた。(中略)少しきまり悪そうにはにかみながら、しかし大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい」(p157)
この文章は主人公が愛した女性と重ねたものでありますが、この眼差しはどこか主人公自身にも通底するように感じます。何だか不思議な読後感のある作品でした。
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2020年02月10日

大和路・信濃路(堀辰雄)

亡き曽祖父の蔵書から。収録は『狐の手套』『雉日記』『フローラとフォーナ』『木の十字架』『伊勢物語など』『姥捨記』『大和路』『信濃路』『雪の上の足跡』です。
 堀辰雄さんの小品集といった感じの一冊で、随筆が中心。大和の紀行文の研究をしていたことをきっかけに読みました。卒論佳境の気分転換に、と思いましたが卒論で読んで来た史料と傾向が似通っているためあまり気分転換にならなかったかも…。
この作品群の中では芥川や犀星、与謝野晶子といった現代の作家や『更科物語』『伊勢物語』の古典文学、プルーストなどの海外文学まで、幅広い文芸作品に関して言及しており、堀辰雄の世界観によく触れられる短編集であると思います。 単品としても楽しみますが、他の作品を読んでからだともっと楽しめただろうなぁ、と思いました。
『大和路』は作品を書くための取材に大和を訪れた時のエッセイ。法隆寺や唐招提寺といった大和の名刹を訪れているのみならず、秋篠、斑鳩、高畑の生活風景を鑑賞したり、河内高安や山城浄瑠璃寺まで足を伸ばしていたり、内容は広範・多様に及びます。とりわけ印象に残ったのは浄瑠璃寺の情景。山深い田園風景の中にある古刹を訪れる。十六七の寺の少女に案内されて、寂れた伽藍(「廃墟」とまで表現されています)をめぐる。少女の話す言葉は素朴な関西弁で、話の内容も素直に気の赴くまま。今は錆びれつつある古の名刹の浄土庭園の中、素朴な言葉で話す少女の鄙びた感じは、現代廃墟で見る退廃感
というよりも千年の時の流れにゆっくりと帰ってゆく様のあはれさ、ゆかしさみたいなものを感じます。
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2019年11月06日

人魚の嘆き 魔術師(谷崎潤一郎)

 中公文庫。谷崎の中でも、ややマイナーな初期短編2編が収録された作品です。
 前者は清朝の時代、財産と美貌、知性に恵まれ、この世の贅沢を尽くして飽き果てていたところ、人魚を連れた西洋人が現れるという物語。
 後者は、怪奇趣味を持った男が、恋人に誘われ、異形の見世物がはびこる公園の中に位置する美しい魔術師の見世物小屋を訪ねるお話。

 中井英夫氏の解説では、一種の美文調であまり現代の読者には響かないと中々辛辣な評価がされていますが、どちらも微妙な味わいのある作品。人魚や魔術師のもつ魔性の美しさは、確かに馴染みの浅い漢語が多く、後の谷崎作品の流麗さはないものの、その世界観に共通するところは多分にあります。
 前者は少し童話的な印象を受ける一方、後者はポオや乱歩のようなゴシック的怪奇小説の空気感があります。公園という空間が俗悪な人工物と人混みで溢れ、奇々怪々な見世物があちこちに乱舞する、ある種爛熟した醜悪な美しさを持ったものとして表現されているのも見どころです。公園というと、現在では爽やかなパブリック・スペースとしてのイメージの方が強いですが、しばしば寺社地などから割譲される経緯もあってテキ屋や見世物などが多く出される、俗な(しかし、もともと縁日などで聖と結びついていた)空間でもあります。ゴシック小説では森や古城、廃墟、墓場など暗く怪しいところを背景とする傾向がありますが、この俗悪な夜の公園の中、蝙蝠のような白楊樹の植栽がされた魔術師の小屋は、こうした舞台装置にぴったりであります。乱歩の『踊る一寸法師』を彷彿として、中々好きな作品です。
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2019年06月15日

雪国(川端康成)

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という冒頭があまりにも有名な作品。隧道の真っ暗な断絶から、広がる暗く白い夜の雪景色が広がる様が頭に浮かび、物語の始まりとして実に視覚的、演劇的で、素敵です。
 川端康成の作品は以前に『古都』を読んだのみでありますが、本作はまた少し違う印象を受けました。『古都』は人物を描くという以上に、人物を通して美しい古都の四季を描いていたような印象であったのですが、本作はその逆な感じ。美しい雪国の風景が背景になっており、その舞台背景は作品にとって大きな役割を演じているのには違いないのですが、本作品では「雪国」や「温泉町」はアノニマスなそれであり、駒子ーーと、葉子ーーを美しく浮き出すための背景である印象を受けました。
 感覚的、官能的な描写が作品全体を通じて見られるのですが、決して淫靡な感じはなく、雪国の透き通った、少し哀しいひんやりとした、暗い美しさの中にそうした感覚的な描写と人物の激しい情動が取り込まれて、何とも綺麗な作品であります。

「美しい血の蛭の輪のように滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(中略)白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を向いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上がっていて、なにより清潔であった」(岩波新書、p76)
 上の描写がいみじく心に残っております。蛭という、一般的に嫌悪の対象となるような吸血環形動物を、このような、肉感的で、しかし、澄んで美しい記述に取り込んでいるのが良いです。

 駒子に焦点の当たることが多いですが、静かで激しい駒子の側に葉子が影のようにちらちら儚く悲しく現れるのも印象的。闇夜にしんと冷えわたる、夜の雪のような、美しい物語であります。
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2019年05月28日

武蔵野(国木田独歩)

 岩波文庫、収録作品は『武蔵野』『郊外』『わかれ』『置土産』『源叔父』『星』『たき火』『おとづれ』『詩想』『忘れえぬ人々』『まぼろし』『鹿狩』『河霧』『小春』『遺言』『初孫』『初恋』『糸くず』です。
 『武蔵野』は日本における近代的な風景の発見と結びつけられてよく取り上げられる作品です。元来日本の風景観は、歌枕などの「名所」、強く規範化されたものを美とするというものでありました。吉野ならば桜、竜田ならば紅葉、といった風に、連想される景物もしばしば定型化されていたということがわかっています。近代になって欧米の影響を受け、風景を科学的に評価したりアノニマスな風景を評価したりするようになってゆくのですが、本編はその様をよく表した作品であると評価されています。本編が取り上げられる「武蔵野」は近世以前、萱原をもって美とされていたようですが、独歩はこれまで評価されることのなかった楢林、落葉樹林の美をツルゲーネフをひきながら見出しております。楢林を逍遥する中に、地理学的な、科学的な感性が現れているのもとても近代的であります。
 この作品はイギリスの田園詩人・ワーズワースの影響を強く受けているようで、後半に収録されている掌編『小春』においてそれははっきりと明示されております。
 『武蔵野』は「郊外」の発見であるという言説もあります。

「田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つ其処らの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波が此処で落合って、緩かにうずを巻いているようにも思われる」(p31)

と独歩は郊外の風景を評価しています。ここで言う「郊外」は、ニュータウン、住宅地、ロードサイドなどのキーワードで連想される現代日本の郊外とは異なり、多分に農村的、田園的景観の残ったものであります。独歩の書いた林や畑、人家の混ざった景観は現在ほとんどが宅地化されて残っておりません。(航空写真で見ていると多摩川沿いなどにその断片は見られるようですが、連続する風景としてはもはや失われたものでしょう)。郊外といっても当時の認識と現在の認識は違いますし、地理的な差異もあります。自明のことではありますが、「郊外」論を考えるとき、「郊外」と一括りにせず、時空間の差異を考慮した上で考えないといけないな、と、自戒を込めて。

 表題の『武蔵野』が有名にすぎますが、それ以外の作品にも中々素敵なものがたくさんあったので、少しばかり紹介を。
 『源叔父』は妻子を亡くした船渡し・源叔父と孤児乞食の紀州の物語。波のような物語で、感情の上がり下がりがなんとも哀しさを誘います。独歩は『武蔵野』の叙景小説のイメージが強かったのですが、このような短編もとても魅力的です。
 『星』『たき火』は童話のような掌編で、また雰囲気が変わります。『星』は詩人の休むもとで遊ぶ二人の星の話で、可愛らしく心くすぐり、好きです。文語体ながらも言葉の選択が優しく、良い雰囲気。独歩の文才の幅広さを感じさせます。
 『忘れえぬ人々』も、印象的です。袖触れ交わすだけの人の中にも、やけに心に残る人っていますよね。人を待っているのか、寂しげに一人改札の前に佇む青年。電車で向かいに座った、厚いメガネをこすりながら熱心に本を読む少女。わたし自身の記憶を振り返っても、こうした、ちょっとした接点しかないのに、どういうわけか、心を揺さぶるような人が、幾人か胸に浮かびます。この気持ちを短文的に言葉にするのはとても難しいですが、独歩は小説、物語という形式でこの時の気持ちを的確に表していて、「ああ、これだ」と心動かされました。

 独歩作品をまとまって読んだのはこれが初めてでしたが、思っていた以上に作品の地平が広く、多様で魅力的な作品が並んでおり、良き読書体験となったように思います。
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2019年03月28日

斜陽 他一篇(太宰治)

 岩波文庫で読みました、太宰治さんの小説です。『斜陽』のほか、『おさん』が収録されています。都内の家を追われ、伊豆に移住した敗戦直後の没落華族家庭の親子の様子を描いた作品であります。「斜陽」という言葉に没落の意味を与えたのはこの作品だったとかいう話も聞きます。
 語り手であるかず子は恋と革命を志向し、弟の直治は世間とのずれの中デカダンに向かい、母は「最後の貴婦人」の気品を保つ。政治体制の変革の中、滅びてゆく社会階層の哀しさが美しく描かれた作品だったように思います。母が華族であり続ける一方で、かず子・直治はそれぞれ古くからの名家の価値観と、新たな/民衆の価値観との価値観とに翻弄され流様子が描かれています。結婚・恋愛・性行為が一体となるロマンティックラブイデオロギーは近代特有のものでありますが、この作品ではそうした価値観とおそらく出会って間もない上流階級の反動的な?直情が感じられます。(性や愛にまつわる価値観の変遷をしっかり理解しきっていない気がするので、もっとしっかり勉強したいところであるとも感じました)
 とりわけ印象的なのは、かず子が恋を達成した直後に描かれる、直治の残した遺書。散々下品に、退廃的に描かれてきた直治でありますが、「姉さん。僕は、貴族です。」で終わる遺書の文体は訴えかけるようでありながら、なんとも優しく、気品があり、美しい。
 小説全体が、散文でありながら、どこか音楽的な美しさを持っているようにも思いました。流麗な朝餉の場面から始まり、都落ち生活を悲しくも穏やかに描き、直治の帰宅、上原の影がちらつくあたりから、激しさをまとってゆく。直治の日記やかず子の手紙も効果的に挿入され、作品に起伏をつけています。特に、母の死と同時に、「戦闘、開始。」のフレーズとともにかず子の恋と革命の情動が盛り上がって行くシーンなどは、イデオロギーの革命を表す効果を示すと同時に、この作品の音楽性を高めている秀逸な構成だと思います。そう、音楽。この作品を表すのに、「音楽的」という言葉がぴったりな感じがします。

 もともとこの作品を読み始めたきっかけは、谷崎『細雪』を読んで、没落してゆく上流階層の悲しくも華麗な世界に憧れたから。この作品は、時代が少し降ることもあり、谷崎のもの以上に没落の様子を強く描いた作品であります。
 太宰自身が津軽の地主の生まれで、この作品は農地解放後の凋落を受け、チェーホフの『桜の園』を自らの家になぞらえて作ったのがこの作品と言います。(太宰の生家・津島家住宅「斜陽館」は重要文化財にも指定されています)
 こうした話に惹かれるのは私自身も農地改革で一度没落した豪農の家系だからというところがあるからでしょうか。今では経済的には立て直したものの美的感覚などはかなり一般的な家庭と変わらなくなってしまっているため、かつて自分の数代前の先祖も持っていたかもしれない上流階級の美学や、かつて自らの家が体験した没落の悲しき美しさのようなものに(それが幻想かもしれないとしても)憧れを感じているからでありましょうか。チェーホフの『桜の園』もまた手にとってみたいです。

 太宰作品の中では、『女性徒』と並んで好きな作品です。あの作品の透明感と、この作品の音楽性。もともと『人間失格』のデカダンと『走れメロス』の明快さのイメージが強かったのですが、こうした美しい作品が、なんとも好きであります。
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2019年03月09日

潮騒(三島由紀夫)

 三島由紀夫さんの小説です。鳥羽沖に浮かぶ歌島(現実の神島)を舞台に展開される若い漁夫と海女の恋愛劇の物語。
 三島作品は『金閣寺』くらいしか読んだことがなかったので、全然違う作風に少し驚きました。『金閣寺』のような難解さはなく、極めて平易な内容です。
 明るい漁村風景の中繰り広げられる物語は、極めて健康的で、理性的、見ようによっては図式的でもあります。女性や男性の肉体を描いた描写も多いのですが、それも谷崎のような艶やかさはまるでなく、まるで彫刻の裸像を見ているよう。独特の、清々しい官能を感じます。
 佐伯彰一氏の解説によると、ギリシャの小説『ダフニスとクロエ』を現代日本に翻案したものだそうで、そう言われると確かにそんな感じもします。物語中に出てくる少年・少女たちはどこか神話の登場人物のように現実離れしていて感じられ、温かな伊勢鳥羽の海も地中海に似合います。
 離島漁村という世界設定は、日本の土俗性を感じさせながらも、現代(=都市の時代)からは隔絶した印象も受け、ギリシャ小説の日本への翻案にはぴったりな感じ。
 来週の月曜日から鳥羽旅行へ行くので、舞台となった神島を訪ねてみたいと考えております。小説の舞台を訪れ、登場人物の動きをなぞるというのが、最近お気に入りの物語の味わい方。この小説の場合だと現実の自分と、『潮騒』の世界と、古代ギリシャの世界の三重の入れ子で、また不思議な感じがしそうです。
 鳥羽では「文学旅行」をテーマに、伊良子清白の家や江戸川乱歩館も訪問する予定。今から楽しみです。
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2019年02月01日

卍(谷崎潤一郎)

 谷崎潤一郎の小説です。二人の女性の同性愛を中心に展開する卍がらみの人間関係をえがいた作品。一人称の女性が作者に語りかけるという形式で、訴えかけるような迫力があります。関西弁の一人称というのはなかなか珍しく、地の文にも使われている関西弁は、関西人の私にとっても、少し取っつきづらい感じがありますが、いざ作品に入り込むと抜け出せず、臨場感を高める役割を大いに果たしていると思います。
 この作品の一番の見所は、やはり登場人物たちの情動の描き方。ものすごく濃密で、複雑で、たくさんの感情が堆積し、撹乱され、圧縮された感じ。触るとドロッと糸を引きそうな。そのような激情を感じたことのない私にとって、読んでいて混乱するような、恥ずかしくなるような、不思議な感覚を覚えました。
 手紙の引用を持ち出すのも、かなり効果的に作品を盛り上げています。一定の長さの内容を持ち得て、かつ感情をそのまま吐露できるというのは、会話文や地の文の描写にできない手紙ならではの特色だと思います。
 終盤の光子の描かれ方は、『痴人の愛』のナオミと共通するところがあります。破滅的な、奔放な女性にあらゆるものをぐちゃぐちゃにされるというものが谷崎の理想美の一つなのかもしれません。
 作品の展開ごとに複雑に絡み合っていく人間関係、肉体関係、情動。「卍」というタイトルはミステリアスでありながら、それをよく表していて、この作品のえも言われぬ雰囲気をよく形成していると思います。
 そういえば、最近の若者言葉で「マジ卍」というものがあるのですが、それもこの作品を読みながら呟くのにぴったりの言葉だな〜、なんて、しょうもないことを考えたり。
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2019年01月18日

痴人の愛(谷崎潤一郎)

 谷崎潤一郎『痴人の愛』を読みました。
 主人公・河合譲治はカフェエの給仕を務めていた少女・ナオミを引き取り、自分の思い通りの女性に育つよう養育するが、ナオミは譲治の管理を超えて奔放に、淫蕩に育ってゆく、というお話。
 よく聞く分析として、この作品における譲治とナオミは、西欧近代に屈服する日本というメタファーになっているというものがあります。谷崎は、日本が二次大戦で敗戦したとき、「日本の男が、巨大な乳房と巨大な尻を持った白人の女に敗れた、という喜ばしい官能的構図」(三島由紀夫の評)で世界を認識していたのではないか、と言われています。そのことを踏まえれば、『痴人の愛』は、西欧への憧憬・女性へのマゾヒズムという谷崎の精神がよく結晶したものだと言えます。
 また、この作品は大正末期の風俗を描いた作品としても秀逸だと思います。譲治は宇都宮の豪農の出でかなりの月謝をもらうサラリーマン。ナオミは東京の比較的貧困層の生まれで、多少水商売的な意味合いを持っていたカフェエの女給。そうした格差を背景に、物語中盤以降は二人の派手な生活を通して、東京の新中間層のハイカラな社交社会が描かれています。こうした舞台背景は、西欧人的な特徴をもち、譲治が西欧人らしく仕立て上げようとしている近代女性たるナオミの特徴をうまく際立たせています。

 終盤に強調されるように、ナオミは、彼女が悪い女であるからゆえにこれほどまで美しく存在します。
「疑いもなくそれは『邪悪の化身』であって、そして同時に、彼女の体と魂とが持つ悉くの美が、最高潮の形に於いて発揚された姿なのです」(新潮文庫・p278)
 譲治がナオミを追い出す際、憎しみ、憎しむ中でこれまでにない妖艶さ、凄まじい美しさを見出すというシーンです。この美学、何か本能的にわかる気がします。美と恐怖の感覚って、どこか似ている。ゾッとする、という言葉を、美しいものにも、恐ろしいものにも使うように。それがなぜなのか今うまく説明できませんが、この感覚の蠱惑は本当によくわかります。

 この物語はナオミに屈服して終わりますが、その結末は破滅的なものではありません。合資会社を作って収入も確保でき、ナオミを占有はできないまでも、その側にいることはできている。恐ろしく、憎しみながらも恋い焦がれ、服従するることに快感を覚えている。物語のの語り口は、自虐的でありながらも、どこか幸せそうな色が滲んでいます。

 世間でこの小説は官能小説の代表格みたいに、揶揄的に扱われることが多いですが、綿密に紡がれて世界観に、くどくなりすぎない、さらっとした、しかし、感情をよく伝える文体。谷崎の銘作に恥じない優れた作品だと思います。
posted by みさと at 14:50| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする