2019年01月18日

痴人の愛

 谷崎潤一郎『痴人の愛』を読みました。
 主人公・河合譲治はカフェエの給仕を務めていた少女・ナオミを引き取り、自分の思い通りの女性に育つよう養育するが、ナオミは譲治の管理を超えて奔放に、淫蕩に育ってゆく、というお話。
 よく聞く分析として、この作品における譲治とナオミは、西欧近代に屈服する日本というメタファーになっているというものがあります。谷崎は、日本が二次大戦で敗戦したとき、「日本の男が、巨大な乳房と巨大な尻を持った白人の女に敗れた、という喜ばしい官能的構図」(三島由紀夫の評)で世界を認識していたのではないか、と言われています。そのことを踏まえれば、『痴人の愛』は、西欧への憧憬・女性へのマゾヒズムという谷崎の精神がよく結晶したものだと言えます。
 また、この作品は大正末期の風俗を描いた作品としても秀逸だと思います。譲治は宇都宮の豪農の出でかなりの月謝をもらうサラリーマン。ナオミは東京の比較的貧困層の生まれで、多少水商売的な意味合いを持っていたカフェエの女給。そうした格差を背景に、物語中盤以降は二人の派手な生活を通して、東京の新中間層のハイカラな社交社会が描かれています。こうした舞台背景は、西欧人的な特徴をもち、譲治が西欧人らしく仕立て上げようとしている近代女性たるナオミの特徴をうまく際立たせています。

 終盤に強調されるように、ナオミは、彼女が悪い女であるからゆえにこれほどまで美しく存在します。
「疑いもなくそれは『邪悪の化身』であって、そして同時に、彼女の体と魂とが持つ悉くの美が、最高潮の形に於いて発揚された姿なのです」(新潮文庫・p278)
 譲治がナオミを追い出す際、憎しみ、憎しむ中でこれまでにない妖艶さ、凄まじい美しさを見出すというシーンです。この美学、何か本能的にわかる気がします。美と恐怖の感覚って、どこか似ている。ゾッとする、という言葉を、美しいものにも、恐ろしいものにも使うように。それがなぜなのか今うまく説明できませんが、この感覚の蠱惑は本当によくわかります。

 この物語はナオミに屈服して終わりますが、その結末は破滅的なものではありません。合資会社を作って収入も確保でき、ナオミを占有はできないまでも、その側にいることはできている。恐ろしく、憎しみながらも恋い焦がれ、服従するることに快感を覚えている。物語のの語り口は、自虐的でありながらも、どこか幸せそうな色が滲んでいます。

 世間でこの小説は官能小説の代表格みたいに、揶揄的に扱われることが多いですが、綿密に紡がれて世界観に、くどくなりすぎない、さらっとした、しかし、感情をよく伝える文体。谷崎の銘作に恥じない優れた作品だと思います。
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2019年01月10日

桜の森の満開の下・白痴

 岩波文庫、坂口安吾さんの短編集です。収録作品は『風博士』『傲慢な目』『姦淫に寄す』『不可解な失恋に就いて』『南風譜』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』『桜の森の満開の下』『青鬼の褌を洗う女』『アンゴウ』『夜長姫と耳男』です。

 一年ほど前、梶井基次郎『桜の樹の下には』に強く感銘を受け、もう一つ、桜を冠する近代文学で有名な安吾の本作も読んでみたい、と思い、本屋で手に取った一冊です。
 ほとんどの作品に官能的なモティーフが出てくるのが特徴的。谷崎や鏡花の影響を受けていると聞いて、なるほどと思う一方、文章の雰囲気はかなり違います。安吾の文章は、谷崎のさらっとしたものとも、鏡花の幽玄なものとも違う、どこか憂鬱な、退廃的な、すさんだ印象を受けます。
 安吾は、谷崎や鏡花よりも、肉体や肉欲というものを、精神との対比の上で、強く意識しており、それが彼に取っての大きな主題であると感じました。『姦淫に寄す』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『続戦争と一人の女』あたり、それらが特によく現れていると思います。

 多くの短編が収録されていますが、その中でも気に入ったものをいくつか。
 『白痴』は安吾の中で最も有名な作品かもしれません。空襲に襲われる中、白痴の女とともに過ごす男の物語。理性を持たず、肉欲などの本能のみの備わった女。戦争・空襲という、人間の理性が撹乱される極限の状態の中で、「白痴」は特徴的な意味を持ちます。猛火を逃れる終盤、白痴の女は数少ない意思を示します。男はそれに人間を感じ、幸福を覚えます。しかし、最終的に男は女を豚にたとえ、彼女の尻を食いながら肉体の行為に耽るという結末の退廃的な狂おしさはなんとも言えません。

『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』も戦争を主題とした作品。皮肉な男と淫奔な女を題材に、戦時の精神世界をよく描いています。前者の最後、戦争を「オモチャじゃないか」と言い捨て、「もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争に絡みついてやればよかったな」(p184)と女に喩える描写が印象的です。

『桜の森の満開の下』は、梶井の『桜の樹の下には』と筋は全く異なりますが、グロテスクな美しさを描いているという点で共通しています。梶井の記事でも書いたかもしれませんが、生と死は裏返しのものであり、相互に連想させるものでもあります。この作品は、さらに冷たい寂しさと慄然とする狂気をも感じさせます。桜を見ていると、気が狂いそうになる、という感覚も、少し、わかる気がします。山の中を駆けていて、空が一面の桜で埋め尽くされている光景が現れれば、なんと恐ろしいことでしょう。現在では花見は庶民にまで広がっており、桜の植樹も多く、満開の桜もいたるところに現れて、桜は人に近しいものになりすぎてしまいました。しかし、そうした意識がなければ、桜の森の満開の下は、妖しく美しく、不気味な、異空間であります。
 いや、花見の光景を思い浮かべれば、現代においても、人々は桜に集い、狂っていると言えるかもしれない。

『アンゴウ』はこの作品群の中でも異色を放っています。内容・構成ともにさっぱりと美しい。さわやかとまで言って良いかもしれません。

『夜長姫と耳男』は構図としては『桜の森の満開の下』と良く似ています。心理は違いますが、残虐で猟奇的な女の歓心を買うために男が尽くすという構成。可憐なものと残虐な行為が結びつくというのは、しっくりきますし、魅力的ですが、それはどうしてだろう。幼いものは分別がない、とか、ギャップが良い、だなんて単純な話では片付けたくはありません。ここにも、ぞっとする、冷たい、澄み渡った美しさを感じます。 
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2018年12月21日

草迷宮

 泉鏡花さんの中編小説です。幼き日、母に聞いた手毬唄を求めて旅をする青年がたどり着いたのは、曰く付きの荒れ屋敷。どういうわけか逗留する青年を数多の人が訪れるが、怪異が相次ぐ、というあらすじ。
 物語は、横須賀市秋谷が舞台となっています。『春昼』『春昼後刻』の舞台は逗子ですし、鏡花はあの辺りにゆかりがあるのかな、と調べれば、胃腸を悪くした際に逗子に静養していたとのこと。
 鏡花の美しく幻想的な、少し妖しい世界は、此の作品でもよく現れています。子産石や団子、西瓜など作品は鞠を連想させる円形のモティーフが散りばめられており、過去に今に行ったり来たりの物語は、表題通り迷宮のよう。読んでいて懐かしさを感じるのは手毬唄と母への慕情というテーマからでしょうか。
 また同時に、この作品は涼やかさをも感じさせます。作中に清流こそ出て来ませんが、海岸、白濁りした小川、真っ青な井戸など水にまつわるものがよく現れています。さっぱりとしたそれではありませんが、冷水を背中にたらたらと注がれたような涼やかさ。まるで怪談のような。そう、鏡花の作品は、近代小説でありながら、どこか古い怪談のような魅力を持っております。そういえば、鏡花はど『雨月物語』の影響を受けたと聞いたこともあるような。
 また関東に行った時には、逗子と合わせて鏡花の舞台を歩いてみたい、と思いました。鏡花の世界は美しく、妖しく、幻のような世界。現在はリゾート地に開発されて、幻滅するかもしれませんが、鏡花の詩情をかきたてた場所を訪ね、鏡花の見た百年ほど前の風景に思いをはせてみたいです。
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2018年11月29日

女生徒

 角川文庫、太宰治さんの短編集です。収録は『燈籠』『女生徒』『葉桜と魔笛』『皮膚と心』『誰も知らぬ』『きりぎりす』『千代女』『恥』『待つ』『十二月八日』『雪の夜の話』『貨幣』『おさん』『饗応夫人』。

 いずれの作品も女性一人称の語り手による物語。
 表題作が少女性をよく描いた作品として名高く、友人に薦められて手に取りました。「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。」少女が1日を辿りながら、様々なことに感情を巡らしていくのを独白するという形式。汚れていくことを恐れる、荒んでいながらも透き通った敏感な思春期の心が文体にも表現にもよく現れています。
「キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青みには、胸がカラッポになるような、疼くような、くすぐったいような悲しさがある」(p24)
「鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活き活きしている。顔は、他人だ。私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている」(p46)

 この作品で描かれているのは、よくドラマや映画に描かれるような、理想化された思春期「青春」ではありません。もっとトゲトゲしていて、不安定で、センチメンタルな、実際思春期に自分が体験してきた心情に近く、読んでいて色々と胸が切なくなりました。
 思春期なんてついこの間のことだと思っていたのに、この物語を読むともうすっかり遠い昔に過ぎ去ってしまったことが実感されます。もうこんな、ガラスのような心を持つことはできない。私も、もう20歳です。

 社会史的な点に注目しても面白いところもあります。この物語の舞台は、郊外。作品が発表されたのは1939年。都市を逃れ郊外にはじめに進出するのは当初富裕層に限定されていましたが(谷崎『細雪』の世界ですね)、戦前戦中のこの時期は鉄道会社による郊外開発も進み、新中間層が良好な環境を求めて郊外に進出した時期であります。
「よそからはじめてこの田舎にやって来た人の真似をしてみよう。私は(中略)生まれてはじめて郊外の土を踏むのだ。(中略)遠くの畠を見るときは、目を小さくして、うっとりした封をして、いいわねえ、と呟いてため息」(p40-41)
 この辺りの描写には、そうした当時の良好な環境を志向する認識の様子が表れていて興味深いです。近世以前の日本人の風景観は「名所」を美とするものであり、農村のアノニマスな風景を見て美しいと感じるのは比較的近年のことであります。こうした郊外への進出と日本人のの風景観の変化もひょっとしたら時期が対応しているのかもしれません。また調べてみても面白そう。


 他の作品も、なかなか心に突き刺さるものばかり。
『恥』の小説家に自意識過剰で尊大な手紙を送ってしまう少女、『饗応夫人』の「泣くような笑うような」声をあげて来客の接待に狂奔する夫人、それから『千代女』に『皮膚と心』の主人公、、、。自分の中にも多少彼女たちに似た心がある分、強烈な形にして描いたこれらの作品群を読んでそれを自覚し、胸が何度もきゅうっとなりました。
 『雪の夜の話』なんかも、美しく、荒んでいて、良い。
 いずれの作品も本当に良い作品ばかりの名短編集だと思います。借りて読みましたが、また買って手元に置いておこうかな。
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2018年11月27日

吉野葛・蘆刈

 岩波文庫、谷崎潤一郎さんの中編二編。どちらもある土地を舞台に、第二の語り手による母性思慕の追想に没入してゆくという構成の物語であります。
 『吉野葛』の舞台は、上市から国栖、柏木を超え大台ケ原に至る吉野川の源流域の広範な領域。解説でも同様のことが述べられていましたが、源流に遡って行くのと対応して津村ーーそして、それをの内面世界の深奥に近づいていくという所に、作品の妙があると思います。
 吉野は鄙びた地でありながらも、源平や南朝といった歴史的な意味の積み重なった土地であります。
「この悠久な山間の村里は、大方母が生まれた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう。(中略)津村は「昔」と壁一と重の隣へ来た気がした。」(p63) 私たちは田舎を見るときに(たとえ生まれが都会であっても)郷愁を感じたり、農村地域のキャッチコピーに「日本の原風景」と銘打ったりするように、しばしば農村、田舎というものに過去を幻視します。たとえ、そこでの暮らしが現代様になっていたとしても。農村から都市への空間的移動(移住)、時間的移動(都市化)が日本の時代的流れとして存在しており、「田舎」=過去という構図が社会的に成立している気がします。近代化の最中、阪神間の郊外に暮らす谷崎によって書かれた『吉野葛』のこの表現には、そのことがよく現れている気がします。
 時間を遡っていくという主題は、深い歴史を持ち、農村景観を維持した吉野の場所性とよく合致していているように思えます。
 さらさらとした嫌味のない風景描写は心地よく、作品を読み進める手を止めずになお吉野の風土が胸にしみてくる感じがします。実際に舞台を訪ねてみたい気持ちまでも起こってまいります。三之公周辺を登山したいのですが、もう間も無く雪が積もってしまいそう。上市の町や国栖の村を訪ねてみようかな。

 『蘆刈』の舞台は京阪の県境に位置する淀川・水無瀬。構成や雰囲気は吉野葛と良く似ており、これも読んでいて心地の良い小説です。
 どちらの作品も谷崎ーー語り手ーー第二の語り手が重なる感じがあります。『蘆刈』では男が「ちょうど私の影法師のよう」(p106)と描かれていたりしてそれがよりはっきりとしています。お遊さんの人格は『少年』の登場人物にも少しかぶるような感じがして、谷崎の理想の女性像に「母性」がよくあげられますが、少しわがままな嗜虐性のある(揩スけた)人というのもあるのかもしれないな、と思ったり。
 私の所属する研究室助教の藤原学先生が、修論でこの作品を題材に淀川・水無瀬・小椋池の場所性を探る論文を書いていらっしゃいます。先輩からそれを送っていただいたので、勉強も兼ねて読んでみたいと思います。
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2018年10月17日

陰翳礼讃・文章読本

 谷崎潤一郎の随筆集です。収録作品は『陰翳礼讃』『厠のいろいろ』『文房具漫談』『岡本にて』『文章読本』です。

 最近新潮文庫で購入しましたが、どの作品も高校時代に読んだことがあります。
 中でも『陰翳礼讃』は、高校時代に最も影響を受けた文学作品でありますが、色々知識の増えた今、改めて読むとやはり良い。照明や厠、料理、建築などなど話の題材は多岐に渡りますが、高校時代にもっとも感銘を受けたのは食の話です。
 羊羹について
「玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、ーー」(p29)
「人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ーー」(同)
 などと述べています。表現の美しさに悶え、羊羹を買いに走りたくなる思いに駆られます。普段何気なくとっている食事のなかに美があることに気づかされましたし、できるだけ部屋の照明を落とし、日本の食器を使って食事をしたいと感じました。

 私の所属する京大総合人間学部環境構成論分野では、建築論も専門の範疇に入っていることもあり、日本建築のトピックも強く印象に残りました。深い庇や障子を通してほのかな光を取り込むことによって生じる微妙な陰影が日本の奥ゆかしき美を幻出する。折しも『大阪の民家』という民家の写真集を並行して読んでいたこともあって、その美しさが実感を持って理解できました。実家に帰った時や親戚の家を訪れたときに、この感性を持って家の陰影を感じて見たいと思います。

 『厠のいろいろ』は、冒頭に出てくる、大和上市の空中の厠が印象的です。尾籠な内容でありながら、部分によって爽やかさすら感じるユーモアがあり、読んでいて気持ちの良い小編でした。

 『文房具漫談』の内容は、かなり現在の文章論の通説となっているところが多く、首肯しながらするすると読めました。これまでの経験で理解しているところが多いものも、特に無用な装飾に凝り含蓄が現在されている文章が近年多く見られるという指摘には、耳が痛い限りです。


 『陰翳礼讃』には、本当に世界の見方が変わると言っても誇張ではないほど影響を受けています。まだま読書量の足りない私が言うのも軽薄ではありますが、座右の書と言っても良い一冊であります。
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2018年08月15日

刺青・秘密

 新潮文庫、谷崎潤一郎さんの短編集です。収録作品は『刺青』『少年』『幇間』『秘密』『異端者の悲しみ』『二人の稚児』『母を恋うる記』です。

 『細雪』に魅せられて、谷崎に手を出しています。 『細雪』は関西の上流社会を秀麗に描いた地理的小説、風土的小説と言えますが、この短編集は、江戸が物語の舞台であるものがほとんどです。

 とりわけ、『異端者の悲しみ』は江戸の庶民社会のに生きる人物を描いたものという意味で、『細雪』と対照的なものであると言えるかもしれません。この小説は作者・谷崎を思わせる東大の貧乏学生・章三郎の頽廃的な生活を描いたもの。
 ーーベルグソンの「時と自由意志」の論旨を…細かい理屈は何一つ覚えていなかった。にも拘らず、彼は自分が折に触れて、こう云う高尚な問題にまで考えを及ぼし得る智力がある事を、非常に嬉しく感じ始めた。(p140)
 己の能力を過信し、他者を卑下する事で成り立つ歪んだ自尊心が放埓な生活の中対照的に浮き彫りにされています。京大に通う私にも少なからず同じような心の動きがあり、うっと心に刺さるところがありました。
 また、ものうく荒廃した家庭と生活、精神の中に、病気の妹・お富の冷たい瞳が突き刺さるのも効果的で、非常に印象に残りました。
 ーー凹んだ眼科の奥に光って居る凄惨な瞳を、ごろりと一方へ回転させてじろじろと兄の様子を見据えた。(p138)
 

 地理的小説として秀逸だと思うのは、『秘密』です。普段生活している町の中にも、全く通ったことのない場所というものは少なからず存在します。この小説は、そうした場所がテーマ。幼い頃には点と線で構成されていた生活空間が、面的な広がりを持つようになってくるにつれ、こうした道は時折眼前に現れてくるようになります。私自身馴染みある町の見知らぬ姿は、不思議で、とても魅力的で、心踊ります。小説に取り上げられて見て初めて、とても不思議で面白い題材だな、と気づきました。
 ーー丁度瀬の早い渓川のところどころに、澱んだ淵が出来るように、下町の雑沓する巷と巷の間に挟まりながら…閑静な一郭が、なければなるまいと思っていた。(p98)
 大都市という巨大な空間には、ほとんどの人にとって知ることのないこうした場所があるのではないか、という感覚はすっと腑に落ちます。都市は巨大であり、人間の認識のスケールを超えているため、(実際は全ての人の生活空間を重ねれば都市全てを覆い尽くすのでありましょうが、)人間に埋め尽くされていながら空虚な隙間が生じていると感じてしまうのでしょう。
 「秘密」が暴かれたところで場所の魅力が消滅してしまうという結末は、このテーマをおとすには良い結末だと思います。

 『刺青』『少年』『幇間』は、世間で言われる谷崎のイメージ像を体現したような作品。猟奇的でやや性的な物語をぞっとするような美しさで描いています。特に『刺青』は極めて短い中にそれがよく現れており、さすが名作の誉れが高い小説だと感じました。
 『二人の稚児』はこの本書の中では特異な印象を受ける作品で、仏教説話的な物語です。見たことのない「女性」の煩悩に悩まされるというところは他作に見られる谷崎の筆がよく現れている気もします。
 『母を恋うる記』は幻想的な舞台の中、谷崎の作品の多く通底する母への慕情を描いた作品です。五感が極めて繊細に描かれており、極めて美しい一作です。

 性的倒錯を描きながらも、えぐみを感じさせず、極めて美しい物語群。思春期に『春琴抄』を読んで衝撃を受け、敬遠していた作家さんですが、二十歳になった今になってその世界に魅了されています。『痴人の愛』あたり、また他の作品も読んで見たいと思います。
posted by みさと at 22:34| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月10日

古都

 川端康成さんの小説です。京の街に捨てられ、呉服問屋の一人娘として育った千恵子と、北山杉の里・中川で働く村娘の苗子。生き別れた双子の姉妹は祇園祭の日にめぐり合います。
 美しい四季の移り変わりに、京都、平易で流麗な文章。全体として、谷崎の『細雪』を連想させます。作中では、様々な行事、名所を用いて京都の四季を描いています。京都を舞台に、二人の娘をめぐる人間模様を描いているのか、二人の娘を通じて「京都」を描いているのか。京都の「名所図会」的な小説だな、と感じました。

 また、中でも近代化に揉まれる「京都」がこの小説ではよく描かれていると感じます。
ーーそのうちに、京都じゅうが料理旅館になってしまいそうな、いきおいやな(p186)
 という太吉郎の言葉。実際の生活から遊離し、観光地として概念化・テーマパーク化されていく京都への危惧がよく現れた言葉だと思います。
  また、苗子の言葉に、

ーーうちは、原生林の方が好きどす。この村は、まあ、切花を作ってるようなもんどっしゃろ……(p166)
 というのもあります。杉の植林も、現在では「自然」とみなされることも多いですが、人為によって構成されるものです。川端の嗜好として、恣意的に構築されたものを厭い、自然や人の営みによってありのままに成り立つものを求める傾向があるのかもしれません。もっとも、杉の植林を「冬の花」とか「数寄屋」に例える記述もあり、その美しさを、それなりには評価しているとは思いますが。

 私自身、杉の植林というのは、不思議な感じを受けます。昼間にみれば、人の営みを感じてとても親しい印象。厳しい沢を登っていて突如植林が現れればとても安心します。しかし、夜中にみる杉林は異様な感じがして、見ていると不安さえ感じます。のそっと真っ白な柱が屹立している様子。見てはいけない何かが露出している感覚。人間の白骨を見ているような感じ、とでも言えば良いのでしょうか。

 奈良の喫茶店で一気に読んでしまいました。このような雰囲気の作品は好きですし、色々感じること、考えることもありました。
posted by みさと at 00:07| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月03日

金閣寺

 三島由紀夫さんの小説です。1950年の金閣寺焼亡事件をモチーフにしたお話で、吃音症をもつ青年が鹿苑寺の小僧となり、美への想念や生や社会に拒まれた恨みを募らせながら金閣寺を焼くに至るまでを描いています。
 主人公がイメージとして思い浮かべる金閣と実際の金閣へ感じる美のズレは、人の普遍的な美の認識をよく表していると思います。自分の中で理想化しすぎて、実際目にしたときあれ、こんなものかと思うことって、よくある気がします。美に限らず、人間や他のものについても。構築主義の話にも通ずるところがありますね。

 永遠に続くであろう建築の美が、空襲で焼けるかと思われるときに、いつになく親しいものに感じられるようになったというくだりも強く印象に残っています。炎に脅かされてはじめて儚い人間と同じ次元に至るのです。戦争が終わったとき、金閣は「音楽の恐ろしい休止のように、鳴り響く沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである。」と描写されています。堅固な永劫の冷たい美をよく表していると思います。
 僧という聖職にありながら、主人公はやけに俗で、しかし、自分を拒否してきた俗を拒否しているのが、強烈な筆致で描かれています。生々しいような、硬いような、美しくも強烈な作風がとても印象的です。

 ものすごく濃い一冊で、考えることも多くありましたし、自分の思考が追いつかないところも多くありました。またそのうち読み返し、作品や三島の美学観をもっと深く考察してみたいと思います。
posted by みさと at 19:30| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月06日

人間失格 グッド・バイ 他一編

 太宰治さんの短編集です。他一編というのは、『如是我聞』です。
 太宰さんの本は恥ずかしながらあまり読んだことがなく、多分『走れメロス』以外では初めてな気がします。
 『人間失格』の主人公・葉蔵は周囲の人が考えているのかを理解できず、得体の知れない他者に怯えるあまり、道化に走って自らを守っています。
 周囲の考えていることがわからず道化に走る、という気持ちはわかる気がします。私自身も、彼ほどではありませんが、人の気持ちがわからなかったり、「こういうときは一般的にこう感じるものだ」と相対化してしか把握できなかったりします。女の子を指差して友人が「あの娘、可愛いくね?」と聞いてきた時とか。私は人間を「可愛い」と思う気持ちが理解できないのですが、「そうやね」などと答えます。最近では慣れてきてそうでもありませんが、これは可愛いやかっこいいを表す「記号」であると強く意識しながら、キーホルダーやTシャツを買ったりしています。

 葉蔵は人間に怯えてはいますが、無垢な妻を愛したり、アンダーグラウンドの世界に生きる人には共感を持ち、つるんだりしていたことを考えるとどこかで人間を求めていたような、そんな気がします。


 『グッド・バイ』は未完の絶筆。最後には、自らの妻にグッド・バイされるという皮肉な結末で終わるという構想であったそうです。『人間失格』と比べ、かなり軽妙に物語が進んでいきます。

 『如是我聞』は、議論としては粗雑なものですが、太宰の思いが、文章を通じて熱いほどにまで感じられるエッセイ。肩書きばかりを重視する世間を痛烈に批判しています。

 どの作品にも世間への批判・皮肉が込められた一冊。惹きこまれて一気に読んでしまいました。
posted by みさと at 18:06| 奈良 ☔| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする