2019年06月15日

雪国(川端康成)

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という冒頭があまりにも有名な作品。隧道の真っ暗な断絶から、広がる暗く白い夜の雪景色が広がる様が頭に浮かび、物語の始まりとして実に視覚的、演劇的で、素敵です。
 川端康成の作品は以前に『古都』を読んだのみでありますが、本作はまた少し違う印象を受けました。『古都』は人物を描くという以上に、人物を通して美しい古都の四季を描いていたような印象であったのですが、本作はその逆な感じ。美しい雪国の風景が背景になっており、その舞台背景は作品にとって大きな役割を演じているのには違いないのですが、本作品では「雪国」や「温泉町」はアノニマスなそれであり、駒子ーーと、葉子ーーを美しく浮き出すための背景である印象を受けました。
 感覚的、官能的な描写が作品全体を通じて見られるのですが、決して淫靡な感じはなく、雪国の透き通った、少し哀しいひんやりとした、暗い美しさの中にそうした感覚的な描写と人物の激しい情動が取り込まれて、何とも綺麗な作品であります。

「美しい血の蛭の輪のように滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(中略)白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を向いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上がっていて、なにより清潔であった」(岩波新書、p76)
 上の描写がいみじく心に残っております。蛭という、一般的に嫌悪の対象となるような吸血環形動物を、このような、肉感的で、しかし、澄んで美しい記述に取り込んでいるのが良いです。

 駒子に焦点の当たることが多いですが、静かで激しい駒子の側に葉子が影のようにちらちら儚く悲しく現れるのも印象的。闇夜にしんと冷えわたる、夜の雪のような、美しい物語であります。
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2019年05月28日

武蔵野(国木田独歩)

 岩波文庫、収録作品は『武蔵野』『郊外』『わかれ』『置土産』『源叔父』『星』『たき火』『おとづれ』『詩想』『忘れえぬ人々』『まぼろし』『鹿狩』『河霧』『小春』『遺言』『初孫』『初恋』『糸くず』です。
 『武蔵野』は日本における近代的な風景の発見と結びつけられてよく取り上げられる作品です。もともと日本では歌枕などの「名所」、強く規範化されたものを美とする風景観がありました。吉野ならば桜、竜田ならば紅葉、といった風に、連想される景物も定型化されたものが多かったようです。しかし、近代になって欧米の影響を受け、風景を科学的に評価したりアノニマスな風景を評価したりするようになるのですが、本編はその最たるものであると評価されています。本編が取り上げられる「武蔵野」は近世以前、武蔵野は萱原をもって美とされていたようですが、独歩はこれまで評価されることのなかった楢林、落葉樹林の美をツルゲーネフをひきながら見出しております。逍遥の中地理学的な感性が現れているのもとても近代的です。
 他ワーズワースの影響を強く受けているようで、後半に収録されている掌編『小春』においてそれははっきりと明示されております。
 『武蔵野』は「郊外」の発見であるという言説もあります。

「田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つ其処らの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波が此処で落合って、緩かにうずを巻いているようにも思われる」(p31)

と独歩は郊外の風景を評価しています。ここで言う「郊外」は、ニュータウン、住宅地、ロードサイドなどのキイワードで連想される現代日本の郊外とは異なり、多分に農村的、田園的景観の残ったものであります。独歩の書いた林や畑、人家の混ざった景観は現在ほとんどが宅地化されて残っております。(航空写真で見ていると多摩川沿いなどにその断片は見られるようですが、風景としてはもう失われたものでしょう)。郊外といっても当時の認識と現在の認識は違いますし、地理的な差異もあります。自明のことではありますが、「郊外」論を考えるとき、「郊外」と一括りにせず、時空間の差異を考慮した上で考えないといけないと、自戒を込めて。

 表題の『武蔵野』が有名にすぎますが、それ以外の作品にも中々素敵なものがたくさんあったので、少しばかり紹介を。
 『源叔父』は妻子を亡くした船渡し・源叔父と孤児乞食の紀州の物語。波のような物語で、感情の上がり下がりがなんとも哀しさを誘います。独歩は『武蔵野』の叙景小説のイメージが強かったのですが、このような短編もとても魅力的です。
 『星』『たき火』は童話のような掌編で、また雰囲気が変わります。『星』は詩人の休むもとで遊ぶ二人の星の話で、可愛らしく心くすぐり、好きです。文語体ながらも言葉の選択が優しく、良い雰囲気。
 『忘れえぬ人々』も印象的です。袖触れ交わすだけの人の中にも、やけに心に残る人っていますよね。この小説はそうした人と会ったとき、また思い出したときの気持ちをよく表現しています。この気持ちを短文的に言葉にするのはとても難しいですが、独歩は小説、物語という形式で的確に表していて、「ああ、これだ」と心動かされました。
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2019年03月28日

斜陽 他一篇(太宰治)

 岩波文庫で読みました、太宰治さんの小説です。『斜陽』のほか、『おさん』が収録されています。都内の家を追われ、伊豆に移住した敗戦直後の没落華族家庭の親子の様子を描いた作品であります。「斜陽」という言葉に没落の意味を与えたのはこの作品だったとかいう話も聞きます。
 語り手であるかず子は恋と革命を志向し、弟の直治は世間とのずれの中デカダンに向かい、母は「最後の貴婦人」の気品を保つ。政治体制の変革の中、滅びてゆく社会階層の哀しさが美しく描かれた作品だったように思います。母が華族であり続ける一方で、かず子・直治はそれぞれ古くからの名家の価値観と、新たな/民衆の価値観との価値観とに翻弄され流様子が描かれています。結婚・恋愛・性行為が一体となるロマンティックラブイデオロギーは近代特有のものでありますが、この作品ではそうした価値観とおそらく出会って間もない上流階級の反動的な?直情が感じられます。(性や愛にまつわる価値観の変遷をしっかり理解しきっていない気がするので、もっとしっかり勉強したいところであるとも感じました)
 とりわけ印象的なのは、かず子が恋を達成した直後に描かれる、直治の残した遺書。散々下品に、退廃的に描かれてきた直治でありますが、「姉さん。僕は、貴族です。」で終わる遺書の文体は訴えかけるようでありながら、なんとも優しく、気品があり、美しい。
 小説全体が、散文でありながら、どこか音楽的な美しさを持っているようにも思いました。流麗な朝餉の場面から始まり、都落ち生活を悲しくも穏やかに描き、直治の帰宅、上原の影がちらつくあたりから、激しさをまとってゆく。直治の日記やかず子の手紙も効果的に挿入され、作品に起伏をつけています。特に、母の死と同時に、「戦闘、開始。」のフレーズとともにかず子の恋と革命の情動が盛り上がって行くシーンなどは、イデオロギーの革命を表す効果を示すと同時に、この作品の音楽性を高めている秀逸な構成だと思います。そう、音楽。この作品を表すのに、「音楽的」という言葉がぴったりな感じがします。

 もともとこの作品を読み始めたきっかけは、谷崎『細雪』を読んで、没落してゆく上流階層の悲しくも華麗な世界に憧れたから。この作品は、時代が少し降ることもあり、谷崎のもの以上に没落の様子を強く描いた作品であります。
 太宰自身が津軽の地主の生まれで、この作品は農地解放後の凋落を受け、チェーホフの『桜の園』を自らの家になぞらえて作ったのがこの作品と言います。(太宰の生家・津島家住宅「斜陽館」は重要文化財にも指定されています)
 こうした話に惹かれるのは私自身も農地改革で一度没落した豪農の家系だからというところがあるからでしょうか。今では経済的には立て直したものの美的感覚などはかなり一般的な家庭と変わらなくなってしまっているため、かつて自分の数代前の先祖も持っていたかもしれない上流階級の美学や、かつて自らの家が体験した没落の悲しき美しさのようなものに(それが幻想かもしれないとしても)憧れを感じているからでありましょうか。チェーホフの『桜の園』もまた手にとってみたいです。

 太宰作品の中では、『女性徒』と並んで好きな作品です。あの作品の透明感と、この作品の音楽性。もともと『人間失格』のデカダンと『走れメロス』の明快さのイメージが強かったのですが、こうした美しい作品が、なんとも好きであります。
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2019年03月09日

潮騒(三島由紀夫)

 三島由紀夫さんの小説です。鳥羽沖に浮かぶ歌島(現実の神島)を舞台に展開される若い漁夫と海女の恋愛劇の物語。
 三島作品は『金閣寺』くらいしか読んだことがなかったので、全然違う作風に少し驚きました。『金閣寺』のような難解さはなく、極めて平易な内容です。
 明るい漁村風景の中繰り広げられる物語は、極めて健康的で、理性的、見ようによっては図式的でもあります。女性や男性の肉体を描いた描写も多いのですが、それも谷崎のような艶やかさはまるでなく、まるで彫刻の裸像を見ているよう。独特の、清々しい官能を感じます。
 佐伯彰一氏の解説によると、ギリシャの小説『ダフニスとクロエ』を現代日本に翻案したものだそうで、そう言われると確かにそんな感じもします。物語中に出てくる少年・少女たちはどこか神話の登場人物のように現実離れしていて感じられ、温かな伊勢鳥羽の海も地中海に似合います。
 離島漁村という世界設定は、日本の土俗性を感じさせながらも、現代(=都市の時代)からは隔絶した印象も受け、ギリシャ小説の日本への翻案にはぴったりな感じ。
 来週の月曜日から鳥羽旅行へ行くので、舞台となった神島を訪ねてみたいと考えております。小説の舞台を訪れ、登場人物の動きをなぞるというのが、最近お気に入りの物語の味わい方。この小説の場合だと現実の自分と、『潮騒』の世界と、古代ギリシャの世界の三重の入れ子で、また不思議な感じがしそうです。
 鳥羽では「文学旅行」をテーマに、伊良子清白の家や江戸川乱歩館も訪問する予定。今から楽しみです。
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2019年02月01日

卍(谷崎潤一郎)

 谷崎潤一郎の小説です。二人の女性の同性愛を中心に展開する卍がらみの人間関係をえがいた作品。一人称の女性が作者に語りかけるという形式で、訴えかけるような迫力があります。関西弁の一人称というのはなかなか珍しく、地の文にも使われている関西弁は、関西人の私にとっても、少し取っつきづらい感じがありますが、いざ作品に入り込むと抜け出せず、臨場感を高める役割を大いに果たしていると思います。
 この作品の一番の見所は、やはり登場人物たちの情動の描き方。ものすごく濃密で、複雑で、たくさんの感情が堆積し、撹乱され、圧縮された感じ。触るとドロッと糸を引きそうな。そのような激情を感じたことのない私にとって、読んでいて混乱するような、恥ずかしくなるような、不思議な感覚を覚えました。
 手紙の引用を持ち出すのも、かなり効果的に作品を盛り上げています。一定の長さの内容を持ち得て、かつ感情をそのまま吐露できるというのは、会話文や地の文の描写にできない手紙ならではの特色だと思います。
 終盤の光子の描かれ方は、『痴人の愛』のナオミと共通するところがあります。破滅的な、奔放な女性にあらゆるものをぐちゃぐちゃにされるというものが谷崎の理想美の一つなのかもしれません。
 作品の展開ごとに複雑に絡み合っていく人間関係、肉体関係、情動。「卍」というタイトルはミステリアスでありながら、それをよく表していて、この作品のえも言われぬ雰囲気をよく形成していると思います。
 そういえば、最近の若者言葉で「マジ卍」というものがあるのですが、それもこの作品を読みながら呟くのにぴったりの言葉だな〜、なんて、しょうもないことを考えたり。
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2019年01月18日

痴人の愛(谷崎潤一郎)

 谷崎潤一郎『痴人の愛』を読みました。
 主人公・河合譲治はカフェエの給仕を務めていた少女・ナオミを引き取り、自分の思い通りの女性に育つよう養育するが、ナオミは譲治の管理を超えて奔放に、淫蕩に育ってゆく、というお話。
 よく聞く分析として、この作品における譲治とナオミは、西欧近代に屈服する日本というメタファーになっているというものがあります。谷崎は、日本が二次大戦で敗戦したとき、「日本の男が、巨大な乳房と巨大な尻を持った白人の女に敗れた、という喜ばしい官能的構図」(三島由紀夫の評)で世界を認識していたのではないか、と言われています。そのことを踏まえれば、『痴人の愛』は、西欧への憧憬・女性へのマゾヒズムという谷崎の精神がよく結晶したものだと言えます。
 また、この作品は大正末期の風俗を描いた作品としても秀逸だと思います。譲治は宇都宮の豪農の出でかなりの月謝をもらうサラリーマン。ナオミは東京の比較的貧困層の生まれで、多少水商売的な意味合いを持っていたカフェエの女給。そうした格差を背景に、物語中盤以降は二人の派手な生活を通して、東京の新中間層のハイカラな社交社会が描かれています。こうした舞台背景は、西欧人的な特徴をもち、譲治が西欧人らしく仕立て上げようとしている近代女性たるナオミの特徴をうまく際立たせています。

 終盤に強調されるように、ナオミは、彼女が悪い女であるからゆえにこれほどまで美しく存在します。
「疑いもなくそれは『邪悪の化身』であって、そして同時に、彼女の体と魂とが持つ悉くの美が、最高潮の形に於いて発揚された姿なのです」(新潮文庫・p278)
 譲治がナオミを追い出す際、憎しみ、憎しむ中でこれまでにない妖艶さ、凄まじい美しさを見出すというシーンです。この美学、何か本能的にわかる気がします。美と恐怖の感覚って、どこか似ている。ゾッとする、という言葉を、美しいものにも、恐ろしいものにも使うように。それがなぜなのか今うまく説明できませんが、この感覚の蠱惑は本当によくわかります。

 この物語はナオミに屈服して終わりますが、その結末は破滅的なものではありません。合資会社を作って収入も確保でき、ナオミを占有はできないまでも、その側にいることはできている。恐ろしく、憎しみながらも恋い焦がれ、服従するることに快感を覚えている。物語のの語り口は、自虐的でありながらも、どこか幸せそうな色が滲んでいます。

 世間でこの小説は官能小説の代表格みたいに、揶揄的に扱われることが多いですが、綿密に紡がれて世界観に、くどくなりすぎない、さらっとした、しかし、感情をよく伝える文体。谷崎の銘作に恥じない優れた作品だと思います。
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2019年01月10日

桜の森の満開の下・白痴(坂口安吾)

 岩波文庫、坂口安吾さんの短編集です。収録作品は『風博士』『傲慢な目』『姦淫に寄す』『不可解な失恋に就いて』『南風譜』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』『桜の森の満開の下』『青鬼の褌を洗う女』『アンゴウ』『夜長姫と耳男』です。

 一年ほど前、梶井基次郎『桜の樹の下には』に強く感銘を受け、もう一つ、桜を冠する近代文学で有名な安吾の本作も読んでみたい、と思い、本屋で手に取った一冊です。
 ほとんどの作品に官能的なモティーフが出てくるのが特徴的。谷崎や鏡花の影響を受けていると聞いて、なるほどと思う一方、文章の雰囲気はかなり違います。安吾の文章は、谷崎のさらっとしたものとも、鏡花の幽玄なものとも違う、どこか憂鬱な、退廃的な、すさんだ印象を受けます。
 安吾は、谷崎や鏡花よりも、肉体や肉欲というものを、精神との対比の上で、強く意識しており、それが彼に取っての大きな主題であると感じました。『姦淫に寄す』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『続戦争と一人の女』あたり、それらが特によく現れていると思います。

 多くの短編が収録されていますが、その中でも気に入ったものをいくつか。
 『白痴』は安吾の中で最も有名な作品かもしれません。空襲に襲われる中、白痴の女とともに過ごす男の物語。理性を持たず、肉欲などの本能のみの備わった女。戦争・空襲という、人間の理性が撹乱される極限の状態の中で、「白痴」は特徴的な意味を持ちます。猛火を逃れる終盤、白痴の女は数少ない意思を示します。男はそれに人間を感じ、幸福を覚えます。しかし、最終的に男は女を豚にたとえ、彼女の尻を食いながら肉体の行為に耽るという結末の退廃的な狂おしさはなんとも言えません。

『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』も戦争を主題とした作品。皮肉な男と淫奔な女を題材に、戦時の精神世界をよく描いています。前者の最後、戦争を「オモチャじゃないか」と言い捨て、「もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争に絡みついてやればよかったな」(p184)と女に喩える描写が印象的です。

『桜の森の満開の下』は、梶井の『桜の樹の下には』と筋は全く異なりますが、グロテスクな美しさを描いているという点で共通しています。梶井の記事でも書いたかもしれませんが、生と死は裏返しのものであり、相互に連想させるものでもあります。この作品は、さらに冷たい寂しさと慄然とする狂気をも感じさせます。桜を見ていると、気が狂いそうになる、という感覚も、少し、わかる気がします。山の中を駆けていて、空が一面の桜で埋め尽くされている光景が現れれば、なんと恐ろしいことでしょう。現在では花見は庶民にまで広がっており、桜の植樹も多く、満開の桜もいたるところに現れて、桜は人に近しいものになりすぎてしまいました。しかし、そうした意識がなければ、桜の森の満開の下は、妖しく美しく、不気味な、異空間であります。
 いや、花見の光景を思い浮かべれば、現代においても、人々は桜に集い、狂っていると言えるかもしれない。

『アンゴウ』はこの作品群の中でも異色を放っています。内容・構成ともにさっぱりと美しい。さわやかとまで言って良いかもしれません。

『夜長姫と耳男』は構図としては『桜の森の満開の下』と良く似ています。心理は違いますが、残虐で猟奇的な女の歓心を買うために男が尽くすという構成。可憐なものと残虐な行為が結びつくというのは、しっくりきますし、魅力的ですが、それはどうしてだろう。幼いものは分別がない、とか、ギャップが良い、だなんて単純な話では片付けたくはありません。ここにも、ぞっとする、冷たい、澄み渡った美しさを感じます。 
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2018年12月21日

草迷宮(泉鏡花)

 泉鏡花さんの中編小説です。幼き日、母に聞いた手毬唄を求めて旅をする青年がたどり着いたのは、曰く付きの荒れ屋敷。どういうわけか逗留する青年を数多の人が訪れるが、怪異が相次ぐ、というあらすじ。
 物語は、横須賀市秋谷が舞台となっています。『春昼』『春昼後刻』の舞台は逗子ですし、鏡花はあの辺りにゆかりがあるのかな、と調べれば、胃腸を悪くした際に逗子に静養していたとのこと。
 鏡花の美しく幻想的な、少し妖しい世界は、此の作品でもよく現れています。子産石や団子、西瓜など作品は鞠を連想させる円形のモティーフが散りばめられており、過去に今に行ったり来たりの物語は、表題通り迷宮のよう。読んでいて懐かしさを感じるのは手毬唄と母への慕情というテーマからでしょうか。
 また同時に、この作品は涼やかさをも感じさせます。作中に清流こそ出て来ませんが、海岸、白濁りした小川、真っ青な井戸など水にまつわるものがよく現れています。さっぱりとしたそれではありませんが、冷水を背中にたらたらと注がれたような涼やかさ。まるで怪談のような。そう、鏡花の作品は、近代小説でありながら、どこか古い怪談のような魅力を持っております。そういえば、鏡花はど『雨月物語』の影響を受けたと聞いたこともあるような。
 また関東に行った時には、逗子と合わせて鏡花の舞台を歩いてみたい、と思いました。鏡花の世界は美しく、妖しく、幻のような世界。現在はリゾート地に開発されて、幻滅するかもしれませんが、鏡花の詩情をかきたてた場所を訪ね、鏡花の見た百年ほど前の風景に思いをはせてみたいです。
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2018年11月29日

女生徒(太宰治)

 角川文庫、太宰治さんの短編集です。収録は『燈籠』『女生徒』『葉桜と魔笛』『皮膚と心』『誰も知らぬ』『きりぎりす』『千代女』『恥』『待つ』『十二月八日』『雪の夜の話』『貨幣』『おさん』『饗応夫人』。

 いずれの作品も女性一人称の語り手による物語。
 表題作が少女性をよく描いた作品として名高く、友人に薦められて手に取りました。「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。」少女が1日を辿りながら、様々なことに感情を巡らしていくのを独白するという形式。汚れていくことを恐れる、荒んでいながらも透き通った敏感な思春期の心が文体にも表現にもよく現れています。
「キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青みには、胸がカラッポになるような、疼くような、くすぐったいような悲しさがある」(p24)
「鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活き活きしている。顔は、他人だ。私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている」(p46)

 この作品で描かれているのは、よくドラマや映画に描かれるような、理想化された思春期「青春」ではありません。もっとトゲトゲしていて、不安定で、センチメンタルな、実際思春期に自分が体験してきた心情に近く、読んでいて色々と胸が切なくなりました。
 思春期なんてついこの間のことだと思っていたのに、この物語を読むともうすっかり遠い昔に過ぎ去ってしまったことが実感されます。もうこんな、ガラスのような心を持つことはできない。私も、もう20歳です。

 社会史的な点に注目しても面白いところもあります。この物語の舞台は、郊外。作品が発表されたのは1939年。都市を逃れ郊外にはじめに進出するのは当初富裕層に限定されていましたが(谷崎『細雪』の世界ですね)、戦前戦中のこの時期は鉄道会社による郊外開発も進み、新中間層が良好な環境を求めて郊外に進出した時期であります。
「よそからはじめてこの田舎にやって来た人の真似をしてみよう。私は(中略)生まれてはじめて郊外の土を踏むのだ。(中略)遠くの畠を見るときは、目を小さくして、うっとりした封をして、いいわねえ、と呟いてため息」(p40-41)
 この辺りの描写には、そうした当時の良好な環境を志向する認識の様子が表れていて興味深いです。近世以前の日本人の風景観は「名所」を美とするものであり、農村のアノニマスな風景を見て美しいと感じるのは比較的近年のことであります。こうした郊外への進出と日本人のの風景観の変化もひょっとしたら時期が対応しているのかもしれません。また調べてみても面白そう。


 他の作品も、なかなか心に突き刺さるものばかり。
『恥』の小説家に自意識過剰で尊大な手紙を送ってしまう少女、『饗応夫人』の「泣くような笑うような」声をあげて来客の接待に狂奔する夫人、それから『千代女』に『皮膚と心』の主人公、、、。自分の中にも多少彼女たちに似た心がある分、強烈な形にして描いたこれらの作品群を読んでそれを自覚し、胸が何度もきゅうっとなりました。
 『雪の夜の話』なんかも、美しく、荒んでいて、良い。
 いずれの作品も本当に良い作品ばかりの名短編集だと思います。借りて読みましたが、また買って手元に置いておこうかな。
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2018年11月27日

吉野葛・蘆刈(谷崎潤一郎)

 岩波文庫、谷崎潤一郎さんの中編二編。どちらもある土地を舞台に、第二の語り手による母性思慕の追想に没入してゆくという構成の物語であります。
 『吉野葛』の舞台は、上市から国栖、柏木を超え大台ケ原に至る吉野川の源流域の広範な領域。解説でも同様のことが述べられていましたが、源流に遡って行くのと対応して津村ーーそして、それをの内面世界の深奥に近づいていくという所に、作品の妙があると思います。
 吉野は鄙びた地でありながらも、源平や南朝といった歴史的な意味の積み重なった土地であります。
「この悠久な山間の村里は、大方母が生まれた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう。(中略)津村は「昔」と壁一と重の隣へ来た気がした。」(p63) 私たちは田舎を見るときに(たとえ生まれが都会であっても)郷愁を感じたり、農村地域のキャッチコピーに「日本の原風景」と銘打ったりするように、しばしば農村、田舎というものに過去を幻視します。たとえ、そこでの暮らしが現代様になっていたとしても。農村から都市への空間的移動(移住)、時間的移動(都市化)が日本の時代的流れとして存在しており、「田舎」=過去という構図が社会的に成立している気がします。近代化の最中、阪神間の郊外に暮らす谷崎によって書かれた『吉野葛』のこの表現には、そのことがよく現れている気がします。
 時間を遡っていくという主題は、深い歴史を持ち、農村景観を維持した吉野の場所性とよく合致していているように思えます。
 さらさらとした嫌味のない風景描写は心地よく、作品を読み進める手を止めずになお吉野の風土が胸にしみてくる感じがします。実際に舞台を訪ねてみたい気持ちまでも起こってまいります。三之公周辺を登山したいのですが、もう間も無く雪が積もってしまいそう。上市の町や国栖の村を訪ねてみようかな。

 『蘆刈』の舞台は京阪の県境に位置する淀川・水無瀬。構成や雰囲気は吉野葛と良く似ており、これも読んでいて心地の良い小説です。
 どちらの作品も谷崎ーー語り手ーー第二の語り手が重なる感じがあります。『蘆刈』では男が「ちょうど私の影法師のよう」(p106)と描かれていたりしてそれがよりはっきりとしています。お遊さんの人格は『少年』の登場人物にも少しかぶるような感じがして、谷崎の理想の女性像に「母性」がよくあげられますが、少しわがままな嗜虐性のある(揩スけた)人というのもあるのかもしれないな、と思ったり。
 私の所属する研究室助教の藤原学先生が、修論でこの作品を題材に淀川・水無瀬・小椋池の場所性を探る論文を書いていらっしゃいます。先輩からそれを送っていただいたので、勉強も兼ねて読んでみたいと思います。
posted by みさと at 11:51| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする