2013年11月25日

柏原三郷の龍田川を知ってほしい

今日の朝日新聞の夕刊。龍田揚げに関連づけて、竜田川を法隆寺と並ぶ斑鳩の名所にしたいと載ってありました。昔記事に書いたことがあるのですが、あの竜田川は古く平群川などと呼ばれるもので、大昔にコピーされた地名。少し苦々しい気持ちになりました。
 本家本元としては柏原市の亀ノ瀬川(大和川)が学者たちのあいだでは定説となっているそうです。他にも、私は個人的に三郷町の関屋川説を挙げましたし、三郷町を本拠とする「龍田三室山桜の会」の方は柏原/三郷境界の「立田川」を主張していらっしゃいました。しかし、斑鳩のあの「竜田川」は江戸時代から完全に否定されてきています。
 しかし、現実に広まったのは観光で売り出した斑鳩側。嘘(というか、この場合はただの間違い)も唱え続ければ本当になるというのはよく言ったものです。ふと竹島とか尖閣とか、領土問題のことを思い出しました。私はどちらが正しいのかなんて分かりませんが、強く主張し続けた方が最終的に勝つのでしょうね。悲しいことです。

 斑鳩の観光協会などは否定しても否定しても、平群川を「竜田川」と呼び続ける。必死になって打ち消すよりも、柏原市と三郷町、そして王寺町、周辺自治体一丸となってこちら側の宣伝をすれば良いと思います。広報に載せる、観光コースを作るなどで地道に宣伝していくことで、100年後には柏原三郷の龍田川も広まるんじゃないかなと思います。斑鳩とは適当に折り合いをつけ、平群川は「復元した」龍田川のような形で宣伝を続ける。潰し合うよりも共栄の路を模索する方が建設的だと思います。
 このブログ記事も、少しでも柏原三郷龍田川の宣伝になればと思います。
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2013年08月13日

橿原と柏原の関係

 さて、久しぶりに柏原の地元ネタ。下のやり取りは、柏原市民ならば、一度は体験したことがあるのではないでしょうか。

Scene 南河内の学校にて友人と。
友A「へぇ〜、あんたカシワラ住んでるんや〜。あの神宮のあるとこやんな?」
私「いや、それ奈良のカシハラ(橿原)。俺が住んでんのは大阪の方」
友A「大阪にそんなとこあったっけ」
私「ぶどうのとこ!」
友A「ああ、あこもカシワラやったかなぁ」
友B「神宮もぶどうも両方奈良県やと思ってた」

 柏原人のあるあるですよね。南河内や泉州の友人たちはまず大抵奈良県だと勘違いされます。藤井寺や羽曳野辺りは認識してくれますが。
 橿原市と混同する人、柏原自体を奈良県だと思う人、色々いますが……。
 さらにややこしいことに、奈良県御所市にも大字柏原という土地があるのです。この柏原はカシハラと読むのですが……。
 柏原市の読みは「カシワラ」とずっと信じて来たのですが、最近、ちょっと不安になることがあります。柏原市山間部の本堂集落で「Hondo Kashihara CT」という標識を見たことがきっかけです。その後、柏原市峠と三郷町立野境界付近にお住まいになっているおじいさまが柏原を「カシハラ」と発音為さったことも気になっております。大阪府の友人たちもよく「カシハラ」と発音していますし、ひょっとして「カシハラ」という発音も普通なのか……。
 まあ、昔は「かしわら」でも「かしはら」でも「かしはら」と書いていましたし……。

 さて、ここで柏原の語源を紹介しましょう。古代、柏原市の地域は堅岩(片足羽・カタシワ)、または片塩と呼ばれる土地でした。ちなみに、古事記に記述のある「片塩浮孔宮」の比定地は柏原だと思われています(大阪府初の宮? 高田説や橿原説もあり)。カタシワの原ですから「カシワラ」「カシハラ」などと呼ばれるようになりました。また、現在の王寺町を拠点としていた氏族・片岡氏が河内へ進出するときに「柏原氏」と名乗ったのが語源とも言われます。「柏原」と名のつく行政区は、江戸時代の河州志紀郡柏原村が確認できた中で最古のものです。
 一方橿原の名前は、神代、神武天皇が即位した橿原宮に由来します。長らく使われていなかった地名ですが、明治時代に橿原神宮が創建され、復活しました。行政的な地名としては、昭和31年に高市郡八木町、今井町など六ヶ町村の合併で橿原市が誕生したときに復活しました。

 二つの語源は違いますが、柏原周辺と橿原周辺には似通った地名が非常に多いので、上に書いた語源が出来る前(橿原宮の語源は分からないですし、堅岩の語源もいまいちわからないです)の段階が同じだったのかもしれません。柏原と橿原の間に、名前のよく似た香芝がありますし。
 柏原橿原だけでなく、本当に共通地名や社寺名が多いのですよ。例を挙げますと、
 坂戸(柏原市の古地名)ーー阪門神社(橿原市)
 旧国分寺(柏原市)ーー国分寺(橿原市)
 玉手(柏原市)ーー玉手(御所市)
 飛鳥(柏原市国分/羽曳野市駒ケ谷)ーー飛鳥(明日香村周辺)
 志紀郡(古柏原村の所属郡)ーー磯城郡(田原本町など。橿原市の一部も)
 この他にも、たくさん見られました。橿原だけでなく、御所の方も特に多い印象を受けました。また次の機会にでも一覧にして考察してみたいと思います。


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2013年08月09日

片岡氏(王寺町周辺)

 今日は王寺周辺に勢力を持っていた氏族・片岡氏のコラムを書きます。

 大和国は平城の興福寺の勢力が非常に強い土地でした。興福寺に対抗するために様々な豪族が多武峯寺という寺を中心に同盟を組んでいましたが、多武峯寺の衰えとともに興福寺に接近するようになりました。「国民」と呼ばれる春日大社の白人神人となって興福寺と仲良くなりました。その国民の中でも、「片岡氏」と呼ばれる氏族が現在の王寺町周辺で力を伸ばしていました。彼らの出自は古代氏族の當麻氏とも大原氏とも言われています。彼らは信貴山寺などで立野氏と争い、また河内にも柏原氏と名乗り進出して力を伸ばしました。柏原氏は柏原の地名の語源となったとも言われています。
 現在も王寺町立小学校の側に残る放光寺はかつて「片岡王寺」と名乗る片岡氏の氏寺でした。この片岡王寺が王寺の地名のもとと成ったのです。即ち、片岡氏は柏原市と王寺町、二つの市町の語源となった氏族なのです・
 王寺や上牧の周辺の古地名も「片岡」と言います。これはこの氏族に由来するものなのでしょう。上牧町にある新興住宅地に片岡台というのもあります。放光寺西の山は「片岡山」ですし、神社は「片岡神社」です。
 盛衰を繰り返しながら勢力を広げていった片岡氏ですが、戦国の動乱でいつのまにか断絶してしまいます。


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2013年02月02日

西村市郎衛門事件(八尾市)

 今回は西村市郎衛門の故事を紹介します。これは、大和川付け替えの後日譚とも言うべき話。大和川付け替えで救われた人がいるのも事実ですが、害を被った人々もいたのです。

 大和川の旧川流域の住民達は水不足に苦しんでいました。旧川流域の村々はたびたび幕府に新大和川から井路川へ水を引くことを請願していたが、聞き入れられる前に大旱にあい、多大な被害が出ました。これを憂いた弓削村庄屋・西村市郎衛門は住民を救うため、幕府に無断で井路川の樋を開き、住民を救いました。しかし、西村市郎衛門はこれを咎められて捕らえられ、大阪城内で客死。
 家財没収、御家断絶となりましたが八尾市の志紀・大正地域の住民からは讃えられ、碑が建てられています。また、彼を偲び、鎮魂する為に講(功)念仏踊りという踊りが昭和初期まで続いていました。現在、またこの踊りを復活させようとする動きもあります。


 写真は西村市郎衛門碑です。この碑は国道沿い、JR志紀駅から南に行った先の交差点近くにあります。
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2012年11月30日

三郷のいちご栽培(三郷町)

 三郷町の特産の農産物って何か思い浮かぶでしょうか。私はふとそう思い、調べてみました。それで見つけたのが今日紹介するいちごですが、現在は残念ながらあまり行われていないようです。今回は三郷のいちごの歴史について短くお話しします。
 いちごの栽培は大正14年頃、立野ではじまりました。干ばつで米の収穫量が少なく、坂根垣内の坂田清太郎氏が米の代替となるものとしていちごを育て始めたのがはじまりです。郡山の平端に行ったときに柿と一緒に持って帰り、栽培を始めました。昭和のはじめ頃からは信貴山のふもとの観光農業として盛んになり、食料農作物(米・麦・さつまいも・馬鈴薯・大豆)の生産が制限された戦時下でも密かに栽培が続けられました。また米との二毛作も行われました。
 また河合町の大輪田でも三郷町と同様の経緯で広まり、同様の発展を見せました。
現在では範囲は斑鳩町などにも広まりましたが、文頭で飲めたとおり三郷町内には殆ど残っていません。信貴山のどか村で生産されているのが数少ない例です。
 昔名産だったものが今や……というのは現代の社会ではよくあることですが、やはり身近な地域にもそういうものがあると寂しくなります。柏原や羽曳野のぶどうなどもそうならないようにしたいものですね。今ある数少ない生産は絶えませんように、と思います。


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2012年10月30日

竜田川と関屋川(三郷町)

 今回は「三室山・竜田川」の記事の続編として、竜田川イコール大和川説の理由を解説します。またそれと一緒に、私が独自に温めていた考えをお話ししたいと思います。荒唐無稽な珍説と言われるのは覚悟していますが、読んでいただけると幸いです。あくまで、こんな考え方も出来るのではないか、という程度におとらえください。
 『三郷町史』によると(上巻525頁以降)、斑鳩町と三郷町、三室山・竜田川が、どちらが元祖か証明する際に、三室山とその南端の高山集落はかつて河内国大県郡(現在の柏原市)だったという話を持ち出しています。

ーーーーーーー『三郷町史』より引用ーーーーーーーー
 改東広山照曜峰寺号光徳寺
 山地境内三百町、在河州大県郡山中

 四至 東限三室竜田川 西限太平寺安堂坊
    北限渋谷大和境 南限青谷村亀瀬川
 右三百町  御寄附

 上卿 日野中納言藤原朝臣家光宣
  安貞二年十一月八日 修理亮平朝臣時氏 奉
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 この後堀河天皇が雁多尾畑光徳寺に賜った文書の、「大県郡山中」にある境内の東限が「三室竜田川」であることから、三室山、そしてその範囲に含まれる(町史は東端としています)高山集落は元来河内国所属、古代の竜田川は現在の大和川だと示しています。

 ここまでが、『三郷町史』などの述べる定説です(ほかにも理由はあるそうですが)。しかし、待って下さい。「三室竜田川」で竜田川が大和川であることにはならないと私は思います。『町史』は「三室山の末端が竜田川に接していたから」としていますが、それではあまりにも不自然な気がします。それよりは素直に竜田川が北から南に流れており、それが国境となっていると考えた方がしっくり来ます。
 かと言って、現在の竜田川(旧平群川)では『三郷町史』の指摘通り大県郡山中を逸脱してしまい、やはり矛盾が生じます。となると、現在の竜田川より上流、三室山付近に北から南に流れる川を探せば良いということになります。該当するのが三郷駅の東の「実盛川」、西の「関屋川」さらにもう少し西、現在の県境近くにある今ではただの溝の「立田川」です。
 さて、どれが「竜田川」なのでしょうか?
 実盛川を境界とすると、三室山から少々離れているのでわざわざ「三室山」と書く必要がなくなってきます。更には、北方の今井集落まで「河内国」となってしまいます。これは後に書く『大和誌』の立野属邑七の記述がどうひねっても成り立たなくなるので間違いとなります。
 立田川も不適当かと。まず、川幅が狭すぎです! 昔はもう少し広かったとしても限度があると思います。名前はそれっぽいのですがね……。
「龍田河 紅葉乱れて ながるめり
              わたらば錦 中やたえなむ」
 これは竜田川を徒歩で渡り、錦を裂くように進んでいく歌ですが、この歌がとても成り立たないです。ちなみに、この歌からも定説を否定できるかもしれません。王寺から亀の瀬のあたりは水深が浅く、また流れが急で、紅葉が浮かんでもとても錦には見えないでしょう。もし仮に見えたとしても「錦を裂くように歩くことはできないと思います。
 さて、残ったのが関屋川。川の名前の「関屋」というのは、河内大和国境の「竜田の関」が置かれていることから名付けられたのでしょうね。川幅は狭いですが、昔はもっと広かったかもしれません。名前も国境の川に当てはまりますし、場所も三室山沿いに南北に流れる。これが一番適当ではないかと思いました。
 また、南限の「青谷村亀瀬川」に注目して下さい。『三郷町史』は竜田川が大和川であることを証明したいのに、同じく大和川の別名・「亀瀬川」が出てきます。現在の大和川が二種類の呼び名で呼ばれるのも不思議な感じがします。ここからも、竜田川イコール大和川が必ずしもそうでないというのが考えられますね。
 以上のことからまとめると、いにしえの竜田川は現在の関屋川でもともとの国境の川、そしてそれより西にある三室山と高山集落はもと河内の国所属。いかがでしょうか……?
 もっとも、藤原道長の竜田川を詠んだ歌のうちに、大和川の「亀ノ瀬」が出てきたと思います。このあたりを見ると竜田川大和川説も間違いではないと思います。しかし、現在の竜田川(平群川)のように、一時期関屋川が竜田川だったという可能性も完全に否定することは難しいです。
 案外、関屋川・大和川をともに含めたあのあたりの川の総称が「竜田川」だったのかもしれません。私はそう思っています。
 また能楽「龍田」での竜田川は、あらすじ(僧が大和の寺社を巡り終えて河内へ行くとき、最後に龍田大社にお参りする。その手前、竜田川を渡ろうとすると……)から考えると関屋川の東・実盛川が適当だと思えます。大和川に抜け道がありそうにないですし……。やはり「竜田川」は河川の総称であったと考えると自然ですかね。


 現在の関屋川。普通の都市河川となっています。今の姿からでは人に信じろと言う方が難しいですが、これが昔の竜田川だとしたら……と思うとわくわくします。
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2012年10月07日

當麻の家 (葛城市)

 奈良県葛城市當麻地区を国道165号線大和高田バイパスで南下し、二上山の登山口や當麻寺へ向かっていると、右手方向に道の駅が見えてきます。それが「ふたかみパーク當麻」です。

 この道の駅は「當麻の家」と呼ばれる、皆によく想像される道の駅と、それに付属する公園からなっています。今回は「當麻の家」の部分を紹介します。
 この道の駅では、お決まりの郷土野菜や特産品を販売しているほか、これも郷土のものを多く使った料理を提供するレストランがあります。


 私はサイクリングの折り返し地点にこの「ふたかみパーク」を選び、「當麻の家」で昼食をとりました。葛城市のイメージキャラクター・蓮花ちゃんの「蓮花定食」や當麻蹶速の名を取った「けはやうどん」「けはや御膳」などがメニューにありました。私が頼んだのは「けはやうどん」。これは普通の白ご飯に対する玄米ご飯のように、うどんに使う小麦を精米……じゃなくて、精麦せずに打ったものです。少し分かりにくいので写真は掲載しませんが、そば色で独特の風味と歯ごたえを持っていました。やはり玄米のように甘味が強く感じられ、もちもちとしていて尚かつ腰があって美味しかったです。またここに来たら注文したいと思います。
 隣に大きな公園があるせいか、親子連れが多かったように思います。お子様のいる家庭にもぜひお勧めしたい場所です。
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2012年09月20日

金魚資料館(大和郡山市)

 今回紹介するのは金魚の町・郡山の金魚資料館です。郡山の金魚の歴史についてはこちらをご覧下さい。

 この資料館は大和郡山市新木町の集落北端にあります。新木町は郡山市街からさほど離れていませんが、周囲を金魚池が取り巻いており、さながら島の様になっています。
 さて、私は三月の地歴部巡検「大和路をゆく 〜〜柏原・郡山〜〜」の際この資料館に訪れました。数多くの金魚が水槽展示されており、名前も知らない金魚もたくさんありました。はじめは「思ったよりも簡素だな」と期待を裏切られたように思いましたが、実際に見学すると予想以上で、まるで水族館に行ったような充実感を覚えました。本当に心から美しいと思う金魚から、少しグロテスクなのになぜか目をひく金魚まで、本当に様々な金魚がいました。
 定休日は平日の月曜日で、入場料は無料です。大変見応えのある資料館ですので、ぜひ行ってみて下さい!


 金魚資料館。本当にすばらしい資料館でした。金魚の品種の解説を書いてくれるともっと良かったのですが……。
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 周囲の郡山新木町は金魚の一大生産地です。資料館のすぐ側にも金魚池がありました。
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posted by みさと at 23:24| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 郷土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月02日

清浄泉(柏原市)

 柏原市の竜田山麓・太平寺二丁目に「清浄泉」と呼ばれる井戸があります。

 この井戸は生駒山地の形成時に、岩盤から大量に湧出するようになった湧き水で、飛鳥朝・奈良朝の時代には智識寺行宮・竹原井(たかはらい)離宮に行幸された天皇様やお坊さんがここの水を飲んだそうです。竹原井の「井」はこの井戸であるという説もあります。石(いわ)神社の南から古代の導水管が出土していますが、これが清浄泉から水を引くものだと考えられています。竹原井頓宮がここにあったという傍証として挙げられたこともあるそうです。
 また、鎌倉時代の『未来和歌抄』に
 「たかはらの 石井の水や まさるらん
                立田の山の さみだれのころ」
という歌が載っています。これも清浄泉を詠んだものと考えられています。
 言い伝えでは、弘法大師・空海がこの井戸を掘り起こし、付近の村を旱魃から救ったとされています。そのことから「大師の水」と呼ばれているそうです。上水道整備までは太平寺付近住民の貴重な飲料水となっていました。 この湧水脈は生駒山頂の八大龍王から八尾市の水呑地蔵尊、そしてここ太平寺の長命泉(観音寺内)・清浄泉と続いています。この井戸と水脈を含む地域は大阪府文化財保護条例に基づいて昭和58年5月2日に史跡に指定されました。


 清浄泉。それなりに有名な湧き水だそうで、汲水心得もはってありました。煮沸させてから飲め、とありましたが、湧水脈ならそんなことしなくても大丈夫な気がしますが。昔は飲んでいたそうですし。しかしまあ、私も飲むなというものを飲むほど怖いもの知らずではないので、手を洗うだけにとどめておきました。今度はペットボトルを汲んで帰って家で沸騰させて飲んでみよう、と……。
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2012年08月29日

たつたひめ(三郷町)

 「たつたひめ」とは三郷町のイメージキャラクターです。羽衣を身にまとい、秋の象徴である紅葉を持ち、三郷のゆるキャラとして皆に親しまれています。
 そんなたつたひめのモデルは名前はそのまま、竜田姫です。竜田山の神様で、秋や染め物、裁縫を司るそうです。お祀りしている神社は三郷町内の竜田大社などです。
 竜田姫は能楽「竜田」にもシテとして出てきます。


 たつたひめちゃん。普段は三郷町役場のエントランスにいます。ゆるキャラとしてはあまり有名ではありませんが、私は結構気に入っています。
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posted by みさと at 20:41| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 郷土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする