2017年05月08日

文化と国家――教育と国民の形成

 久しぶりに社会科学にまつわることをブログで書こうかな、と。教育が国家を形成し、ナショナリズムを生じさせるというゲルナーのナショナリズム論を元に、文化と国家・地域の関係を考察してみようと思います。政治や教育については全くの門外漢ですが、大学で学ぶ人文地理学・文化人類学と深く結びつき、中々興味のあるところであります。

ゲルナーは農耕社会から近代の産業社会への移行が国家を生み出したと述べています。産業社会の二次・三次産業は普遍的な読み書きの能力、また高水準の計算能力などを必要としています。これらの能力を身に着けるためには、農耕社会での口伝的、実践的な教育ではなく、地域によって異ならない、高次の教育が行われる必要があります。この高次の教育システムを支えるためには国家が必要であり、逆に言うと、国家は教育を独占し、国家の領域を標準化・定式化したやり方で、「国民」に教育を行います。このとき、新世代に伝わる文化は口伝的な共同体の個別文化ではなく、汎国家的な、あるいは国家という単位に統一された文化であります。新世代はこうして「国」の文化に愛着を持つようになり、ナショナリズムが生じるのであります。(出版資本主義、想像の共同体という議論もありますが、長くなるし調べればすぐ出てくることなので割愛…。)

 ここで、具体的な事例を取り上げてみます。発展途上国の国土周縁地域において、先住民族の識字率を上げようとする取り組みは様々な国でなされています。私は高校時代、タイの先住民族の識字率向上に取り組むボランティアの人と会ったことがあります。彼女は、「その地域の先住民族は文字のない言語を使っており(即ち識字率が低いため)、近代的な職に就けず生活レベルも低い。そのため、タイ語教育を推進して識字率を向上させたい」と述べていました。
私はそれを聞いて、複雑な気持ちになりました。確かに、近現代的な二次産業・三次産業の職に就くためには多くの場合文字を読めなければならず、またその文字は普遍的な共通語であることが望ましいのはもっともです。実際タイ語の文字教育を行えば、その民族は経済的に豊かになれるかもしれません。
しかし、これまで受け継がれてきたその民族独自の言語や文化はタイの共通語・タイの中心的な文化に併呑されることとなるのではないか。さらに文字を読めるようになった住民は都市的職業を求めて都市に移住し、長らく独自文化を養ってきた地域自体が消滅してしまうのではないだろうか。タイの周縁地域におけるタイ語教育は、日本がアジア各地で行っていた皇民化政策といかに違うのだろうか。そう疑問を抱いた一方で、文化の喪失は彼らにとって意味のあることかどうかはわからないのではないか、ということにも気づきます。文化の継承よりも現代的な豊かな暮らしを享受する方が彼らにとって幸せなのかもしれない。すでに幕末維新期、文化を西欧の波に沈めるのと引き換えに産業化を享受している私たち日本人にとやこう言う資格はない。もし識字教育を推進する人たちが、彼らの意志を確かめた上で運動を行っているのであれば、反論はなおさら難しくなります。
今になって、あのとき農耕社会から産業社会への変化の様子、そして国民が生成される様子を目の当たりにしていたのだと気付きます。あの地域の住民は、XX族からタイ人になろうとしていたのです。
国民・国家の生成は、国家以下のスケールの文化を多かれ少なかれ消滅させてしまいます。ナショナリストは国家の文化を殊更に信奉して、画一的な風景や価値観を増産するグローバリゼーションを批判しています。しかし、あえて強い言葉を使うと、彼らの信ずるところの文化は教育というものを通じて内なる文化を多く滅ぼして恣意的に形成された文化なのであります。すなわち過去において生じたナショナリゼーションは現在起こっているグローバリゼーションと同じ一面を持っているのです(だからと言って、個人的にグローバリゼーションを肯定するわけではありませんが)。それが国家という規模か、世界という規模かの違いです。
 グローバリゼーションを文化の面から批判するのであれば、国家とその国の文化の関係から見直さなければなりません。
 そもそも、ある基準で空間を区切るという行為自体がそれ以下のスケールの文化やアイデンティティを滅ぼすことに繫がっているのだと思います。また後日稿を改め、今回より微視的な観点から、廃藩置県や都道府県、県民性の問題を例に挙げ、この問題について考えたいと思います。
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2013年08月08日

源氏最終回〜〜義仲/行綱/山本義経〜〜

 今回で最終回です。中学校でも赤字で習った、ご存知木曾義仲の他、行綱、そしてもうひとり、九郎義経と同姓同名の源(山本)義経です。義経生存説に、ひょっとしたらこの人も関わっているかも……。歴史って面白いですね。

3−3 木曽義仲
子に義高らがいます。義朝の弟・帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)と遊女の息子で、父が悪源太義平と土地問題を起こし、争って殺された後木曽に逃れその地方の豪族・中原兼遠に預けられました。以仁王の挙兵を聞いて自らも挙兵し、倶利伽羅峠などで平家の大群を破り、そして源氏で一番早く上京しました。しかし京都で横暴をはたらいた為に頼朝らに追われ、粟津で殺されました。

3−4 多田蔵人行綱(ただのくろうどゆきつな)
源頼政と同流の摂津源氏で、平家、木曽義仲、源頼朝と主君を変えてきた時勢に明るい武将でした。義経に鵯越のルートを教えたのもこの人物です。

3−5 山本義経
頼政に呼応して乱を起こした近江源氏で、九郎義経とは別人です。一揆を起こした直後に平知盛に鎮圧されました。その後、木曽義仲の陣に入ったと言われています。
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2013年08月05日

源氏第五回〜〜頼政/仲綱〜〜

 こんばんは、今回は源平の乱の初頭に出てくる、頼政父子の紹介です。以仁王の乱は、皆さんご存知だと思います。もう少し、その背景を。

第三章 その他
3−1 源三位頼政(げんさんみよりまさ)
子に仲綱、兼綱、広綱らがいます。義経らと違い、酒呑童子(しゅてんどうじ)や土蜘蛛退治で有名な源頼光の子孫で近畿の源氏を支配していました。彼自身も御所に出た怪物・鵺(ぬえ)を退治したと伝えられています。また武勇だけでなく和歌も上手で、有名な歌を数多く残しました。平治の乱では平家に加担し、乱後、都に残る唯一の源氏でした。行家や息子の仲綱に勧められ、以仁王と共に兵を挙げました(以仁王の乱)。しかし彼らが乱を起こした直後は他の反平家勢力は未だ決起しておらず、孤軍奮闘、宇治川付近で平知盛に敗れ、平等院にて自害しました。

3−2 源仲綱
源頼政の長男で、生一本な性格と言われています。平宗盛が彼の駿馬・木下を欲してきたときも、断固として断ったそうです。しかし宗盛は借りると称して木下を奪い、さらにその名を仲綱と変えました。それに腹を立てた源仲綱は父に平家に旗を翻すよう促したといわれています。彼自身も以仁王の乱に参戦し、敗れて平等院で自害しました。
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2013年08月03日

源氏第四回〜〜義朝/行家/義広〜〜

 今回は義朝兄弟についてです。兄弟がたくさんいたようですが、二冊の小説にはこれだけしか出てきませんでした。

第二章 源義朝とその兄弟
2−1 源義朝
頼朝らの父で、保元の乱では平清盛、源頼政らとともに天皇につき、上皇方の父・為義や弟・為朝らと戦いました。保元の乱には勝利しましたが、勝利の恩賞に不満を持ち、平治の乱を起こしました。しかし、それには敗れ、落ち延びた先でもとの家人に打たれて果てました。38歳の若さであったと語り継がれています。好色で、何人もの腹違いの子がいたそうです。子には、悪源太義平、頼朝、義経らがいます。

  コラム 平治の乱
  保元の乱で勝利した源義朝は、昇進先の位が左馬ノ守と平清盛より低い位でした。そのことに腹を立てた義朝が起こした乱です。

2−2 新宮十郎源行家
初めは義盛と名乗っていました。子に光家らがいます。源為義の十男で、為義が保元の乱に敗れたときに処罰され、新宮に流され、彼の異母姉・烏井ノ禅尼(ういのぜんに)を代表とするウイススキ党と言う土豪とともに暮らしていました。しかし鹿ヶ谷事件を耳にし、源氏の再興を志して源三位頼政を唆しました。その後も以仁王や頼朝、甲斐源氏・武田信義を発起させました。伝令を一通り終えると頼朝の下にしばらくいましたが、情の薄い彼に失望し、木曽義仲のもとへ走りました。義仲が都を占領した後今度は彼を落とそうと策動し、義仲が敗走した後は義経の下に逃げました。

2−3 志田義広
義朝の庶弟です。木曽義仲の陣に参加し、平家や頼朝と戦いました。義仲が敗れた後も抵抗をしますが、敗北し、斬首されました。
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2013年08月02日

源氏第三回〜〜範頼/希義/義円/全成〜〜

 第三回も頼朝の兄弟たちです。範頼以外はマイナーかと思いきや、後半二人は「乙若」「今若」の名前の方がよく知られているのではないでしょうか。希義は調べたときはじめて知りましたが、中々気になる人物です。

1−5 蒲ノ冠者範頼(かばのかじゃのりより)
義朝と遠州池田の遊女の子で、義朝にとって六男に当たります。木曽義仲や平氏の追討の総大将を務めました。義経が海上を進む中、彼は陸路を通って平氏を攻めました。尾張の合戦の時、大将でありながら、諸将とともに先陣争いをし、頼朝に怒られたこともありました。

1−6 源希義(まれよし)
頼朝の同母弟で、平治の乱後土佐(高知県)に流されました。頼政・頼朝の反乱を聞き、彼も土佐で乱を起こしましたが近在の平家方に撃破され、自害しました。

1−7 義円
義朝の第七子で、義経の同母兄です。幼名を乙若と言い、僧に成ったばかりの頃の名を郷(きょう)ノ(の)公(きみ)円成と言います。平治の乱後寺に預けられて八条院法親王の坊官となりました。頼朝の挙兵を聞いて寺を飛び出し、彼の陣に参加し、そして墨俣川(すのまたがわ)で平家と対峙する叔父・行家の救援に向かいました。しかし義円は功を焦ったのでしょうか、殆ど単騎に近い状態で敵に奇襲をかけ、反撃にあって戦死しました。

1−8 悪禅師全成
義経の同母兄で、幼名を今若と言います。平治の乱後、寺に預けられて出家しました。以仁王の挙兵を聞き、鎌倉の陣に参加しました。ある程度長生きし、幕政にも参加したそうです。
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2013年08月01日

源氏第二回〜〜義平/義経/朝長〜〜

 前回の続きです。今回は頼朝の有名な二人の兄弟である義経・義平ともうひとり、あまり知られていない朝長を紹介します。

1−2 源九郎義経
源義朝と九条院呈子(ていし)の雑仕女常盤の子で、幼名を牛若丸といいます。父が平治の乱に敗れたので、藤原長成の家、次いで鞍馬寺に預けられました。稚児名は遮那王です。そして、鞍馬寺にいる間に、鎌田正近から自分が源義朝の子であるということを知らされました。その後、鞍馬寺を脱走し、奥州の藤原秀衡の下へ行きました。以仁王の挙兵の後、彼は頼朝の下に走り、壇ノ浦で平家を滅ぼすなどの活躍を見せました。しかしその後頼朝に戦の才能を恐れられ、誅殺されそうになり、奥州の平泉に逃げた所で秀衡の子、藤原泰衡に討たれました。

  コラム 義経北行説
  義経は平泉で死なず、北へ生き延びたという説があります。その説によると中国大陸に渡ってチンギス・ハーンになったそうです・

1−3 悪源太義平
源義朝と橋本宿の遊女の子です。義朝にとって長男ですが、母が卑賤な身分の為、嫡男になれませんでした。武勇をもって知られ、悪源太と呼ばれていました。平治の乱に敗れ、落ち延びているところを逢坂山で捕らえられ、六条河原で処刑されました。

1−4 源朝長
源義朝と修理(しゅり)大夫(だいぶ)範兼の娘の子です。義朝にとっては次男に当たります。平治の乱に破れて東へ落ちようとするところ、竜華越えで叡山の僧兵に腿を射られて動けなくなり、自害もできず、父に殺してくれることを乞い、そのとおりになりました。この話は能楽の番組(世阿弥作)にもなっています。
posted by みさと at 15:34| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 地理/歴史/政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月31日

源氏第一回〜〜源頼朝/結城朝光〜〜

 さて、久しぶりに歴史ネタをやってみたいと思いましたが、情けないことながら今書く気力がありませんで、地歴部時代に書いた源平の「源氏」についてのレポートを転載してみようかなと思います。
 このレポートのびっくりするところは、司馬遼太郎の『義経』、伊沢元彦の『義経はここにいる』を資料に書いたという点ですね。どちらも小説。今振り返ると、「何て根拠の弱い資料を使ったんだ!」という思いと、「よくやったな自分という思い」があります。何でこんなことしたんだろ。
 長いので何度かに分割して公開したいと思います。

第一章 源頼朝とその兄弟
1−1 源頼朝
源義朝と熱田大宮藤原季(すえ)範(のり)の娘の子で、同母弟に希義がいます。義朝にとっては三男ですが、母親が高貴な家柄であった為、嫡男となりました。彼は平治の乱に参戦し、敗れて死刑になるところを平清盛の継母・池ノ禅尼に助けられ、伊豆の蛭(ひる)ヶ(が)小島(こじま)に流されました。以仁王と源頼政の挙兵に呼応して、流刑地で現地の平家・北条時政と協力して兵を挙げました。その後源範頼・義経らを差し向けて、粟津で源義仲を、壇ノ浦で平宗盛を滅ぼしました。
後に征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開きました。

 コラム 結城朝光
 頼朝が蛭ヶ小島で生活していた時に生まれた子とされています。寒河尼の娘との間に生まれ、嫡子となるはずで したが、頼朝が北条政子と結婚した為に廃嫡されました。鎌倉幕府ができてからも頼朝に重宝され、また公式の 血流ではないために勢力争いに巻き込まれることもなく、八十八歳まで生きました。
 以上のことは伝説で、信憑性は薄いと言われています。
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2012年12月14日

大阪都構想

 さて、衆議院選挙も終盤となった今、何を今更といった感はありますが、大阪府民の端くれとして大阪都構想について記事にしたいと思います。
 都構想とは橋下大阪市長や松井大阪府知事が掲げる看板政策で、大阪市・堺市と大阪市に隣接する自治体を統合し、20程度の特別区に分配するというものです。大阪府と大阪市、さらにその下の区の二重行政を改善するためだそうです。
 一年ほど前、松原や八尾、堺などに住む友人と話題になったのですが、柏原市には関係ないや、と思って人ごとのように考えていました。関心を持ったのは今年の五月に「府下の市町村も30万人規模のものに統合する」などという話を聞いてからですね。

 柏原市はどうなるのだろう、と思って合併のパターンを考えてみました。30万人規模に合併するって結構大合併になるのかと思いきや、そこまででもありませんね。八尾市は都区部に含まれるので除くとして……
 柏原市(7万人強)と藤井寺市(7万人弱)、羽曳野市(12万弱)で人口25万人。柏羽藤でよくまとまっていますし、歴史的な交流も多く、妥当で可能性が最も高いと思います。藤井寺の川北は柏原に非常に近いですし、柏原の玉手地区などは市役所のある柏原市北部よりも藤井寺に行く方が楽ですし。
 上のものに、羽曳野に近い太子町(1.5万人弱)をくっつけると、26.5万。他をくっつけるのは……無理そうですね。太子もちょっと無茶な気もします。
 パターンと言っても、柏原+藤井寺+羽曳野(+太子)くらいしかありませんね。この下の案は、半ば冗談みたいなものですが……。
 柏原市(7万強)+三郷町(2万人強)+王寺町(2万人強)+香芝市(8万人弱)で20万人弱の人口になります。柏原・三郷・王寺はもともと龍田大社や信貴山、雁多尾畑光徳寺を中心とする文化圏ですし、国分と香芝は同じ街道沿い。田辺と田尻と対応する地名もありますし、結構交流は深かったと思います。また奈良県になれば30万の規定なんて関係ないです。まあ、県を越えるというだけで実現はほぼ不可能な構想ですが……。


 それにしても、最近大阪都構想
posted by みさと at 16:41| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 地理/歴史/政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月11日

枝郷・属邑

 「枝郷」もしくは「属邑」「分郷」という言葉を聞いたことがありますか? この二つはどちらも同じものを指す言葉です。ある村(本郷)から分かれてできた集落のことです。本郷に途中で合併されるというケースもないことはないようですが、本郷から新しく分離されてできる例の方が多いようです。
 字の意味は次の通り。枝郷・分郷:本郷から枝分かれしてできた郷。属邑:(ある村に)属する邑(むら)。

 実際の例を挙げてみれば分かるでしょう。『河内誌』の「村里」の項に"○○属邑二"という形で表示されているので、それを元に幾つか例を挙げます。

 柏原属邑二:柏原に属邑が二つあるという意味です。大阪府柏原市の今町・古町のことですね。現在でも地名に残っています。本郷はそのまま"本郷"という町名に。(志紀郡)
 平野属邑一:柏原市平野。属邑は山ノ井です。(大県郡)
 雁多尾畑属邑三:柏原市雁多尾畑。属邑は横尾・生津(なまづ)と後もう一つは……何でしょう? 雁多尾畑本郷を上町・地下町にわけるのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい(大県郡)。
 国分属邑三:柏原市国分地区のうち、原川より東側の地域。三つの枝郷は田辺・六軒・東条(ひがんじょう)です(安宿郡)。



 さて、本郷に途中で合併されたものを枝郷と呼ぶケースは少ないと書きましたが、その少ない例を紹介します。
 平群郡勢野村(現生駒郡三郷町)です。江戸時代、惣持寺村が勢野村に併合され、それが枝郷になりました。『大和誌』を読んでいないのでカウントされているかどうかは分かりませんが……。
 明治の町村制施行で江戸期の村里が合併され、勢野村は同じく平群郡の立野・南畑の両村とともに平群郡(添下郡との合併で生駒郡に移行)三郷町を形成しました。旧村里が大字となりましたが、昔の惣持寺村も"大字勢野元惣持寺方"となりました。最近までその字名は存在していましたが、住居表示の実施により"勢野東"となり消えてしまいました。
posted by みさと at 23:12| 大阪 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 地理/歴史/政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月10日

市町別データ

 5月9日、柏原・三郷・斑鳩を調べる過程で、この三市町と周辺市町の人口、面積、人口密度を調べました。柏原市は大和川で二分割。北部(柏原)と南部(国分)に分けて掲載します。データはそれぞれ市のホームページからです。
 調べた市町村は以下の通り

 大阪、堺市(美原区を除く)、堺市美原
 中河内:八尾、柏原市柏原
 南河内:松原、藤井寺、羽曳野、柏原市国分、富田林、河内長野、大阪狭山、南河内郡太子
 北和:奈良、大和郡山、生駒
 西和:生駒郡三郷、生駒郡斑鳩、生駒郡安堵、北葛城郡王寺、北葛城郡上牧、北葛城郡河合、香芝
 中和:橿原、大和高田


 以下データ。人口密度に関し降べきの順
1、大阪:223.00km2 2,670,701人  人口密度:11,976人/km2
2、藤井寺:8.89km2 66,674人  人口密度:7,500人/km2
3、松原:16.66km2 124,865人  人口密度:7,495人/km2
4、八尾:41.71km2 271,066人  人口密度:6,499人/km2
5、堺市(美原区を除く):136.75km2 802,447人  人口密度:5,868人/km2
6、大阪狭山:11.86km2 57,796人  人口密度:4,873人/km2
7、羽曳野:26.44km2 117,140人  人口密度:4,430人/km2
8、大和高田:16.49km2 69,880人  人口密度:4,238人/km2
9、北葛城郡上牧:6.14km2 23,960人  人口密度:3,902人/km2
10、柏原市国分:8.75km2 31,169人  人口密度:3,562人/km2
11、北葛城郡王寺:7.00km2 22,778人  人口密度:3,254人/km2
12、香芝:24.23km2 76,985人  人口密度:3,177人/km2
13、橿原:39.52km2 125,466人  人口密度:3,152人/km2
14、堺市美原:13.24km2 40,165人  人口密度:3,034人/km2
15、富田林:39.66km2 118,494人  人口密度:2,988人/km2
16、生駒郡三郷:8.80km2  22,902人  人口密度:2,603人/km2
17、柏原市柏原:16.64km2 42,177人  人口密度:2,535人/km2
18、北葛城郡河合:8.27km2 19,074人  人口密度:2,306人/km2
19、生駒:53.18km2 12,1011人  人口密度:2,275人/km2
20、大和郡山:42.68km2 90,075人  人口密度:2,110人/km2
21、生駒郡斑鳩:14.27km2 28,561人  人口密度:2,001人/km2
22、生駒郡安堵:4.33km2 7,814人  人口密度:1,805人/km2
23、奈良:276.84km2 36,6815人  人口密度:1,352人/km2
24、河内長野:109.61km2 113,939人  人口密度:1,039人/km2
25、南河内郡太子:14.17km2 14,357人  人口密度:1,013人/km2


 表を見るとよく分かるのですが、人口密度1〜5位を大阪市近辺の市が占めています。調査対象の中、大阪市もしくは大阪市に隣接する市で6位以下のものはありませんでした。
 6位〜15位は南河内北部の市町と西中和中部と、大和川以南の地域が固まっています。
 16位〜22位は大和川以北の地域ばかりでした。
 23位の奈良は西部と東部で人口密度が全然違うので、今回調べただけではあまり特性が見えてきませんでした。
 24位、25位は大阪府内でも山間部で人口が少ないところなのですね。

 6位〜22位が大変興味深かったです。大阪市に近いはずの大和川以北の市町より、以南の市町の方が人口密度が高いのですから。やはり、新興住宅地が川以南に多いからでしょうか?
posted by みさと at 19:11| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 地理/歴史/政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする