2018年01月18日

かしわらの史跡(上)(下)

 重田堅一さんの本です。短いコラムのような柏原の歴史に関する記事を集めた本です。二頁ほどで完結する記事ばかりですので、暇な時間、隙間時間にだらだらと読んで読み切りました。この本の好きなところは、柏原市域に関する和歌がたくさん載っているところ。古歌を集めて龍田の眺めの復元を考えようと思っていたところなので、中々興味深かったです。
 市史を読んでいるので、知っている知識が大部分だったのですが、こう改めて記事集を見てみると、柏原は地味だけどすごい歴史が多いのだなぁ、と。
 かなり読みやすいので、柏原の郷土史入門にはちょうど良いのではないでしょうか。確か、市立図書館にも入っていたと思います。
posted by みさと at 09:12| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月16日

森林の機能と評価

 木平勇吉さん編著の一冊です。公共政策論の演習で林業・森林政策をテーマに選び、その参考にするために読みました。資本主義の世界を考えていると、森林は林業者が木材を生産する場という側面が目立ちますが、実際森林は「緑のダム」というように水を蓄えたり、根を貼ることで土砂災害を防止したり、日本人の原風景を構成する要素となることで、また信仰の対象となること文化形成の基盤となったり、散策に来る人を癒したりするなど、人間社会に多様な形で貢献しています。このため、森林を活用する、時に林業という産業は極めて外部経済の大きな産業であるのです。
 こうした森林の多面的機能は大昔から知られており、平安時代に禁伐令が出されたり、江戸幕府が造林を行ったりしております。戦後初期は経済的機能を重視した政策が中心でしたが、多面的機能を分析し、評価しようとする試みも次第に盛んになり、昭和40年代にはいくつかの森林機能が貨幣評価されました。特に2001年に日本学術会議の「地球環境・人間生活にかかわる農業及び森林の多面的な機能評価について」の答申があり、林業基本法が森林・林業基本法に改正されて以降森林の多面的機能についての注目は強まります。

 ある程度知っている知識を、少し学問的に消化できたような気がします、特に、外部経済をミクロ経済的に費用便益分析を行なったグラフが載っており、このように描けるのだ、と驚きました。経済学の人なら常識のようなことなのかもしれませんが、全然経済学をやってない身からすると、数式だけでこの世を描ける面白さに触れることが感動しました。

 発表では多面的機能の内部化と、森林機能の保持、林業山村振興を目的に、申請に応じて森林機能を簡便に段階評価してそのランクに合わせた助成金を交付するという政策を考えました。かなり粗いな、と思いながらも、教授には(1、2回生向けの基礎演習ということもあって)高評価をいただいたので、ちょっと満足です。
posted by みさと at 12:16| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月03日

20歳の原点

 今月7日、私は20歳になります。そんな私に後輩が貸してくれた一冊がこの本。立命館大学の学生であり、学生運動の渦中の中自ら命を絶った高野悦子さんが、亡くなった歳、すなわち20歳の間に書いた日記です。
 高野悦子さん。旧地主の家に生まれ、京都の大学に通っている学生というのは私と同じ。しかし、時代も、さらにそれに規定される性格の表れも私とは全然違っています。

 彼女が学生時代を過ごしたのは学生運動の時代(1967−1969)です。近代資本主義への埋め込みから脱そうと試み、「個」というものを意識した時代。場所や歴史のしがらみから抜け出し、平等な条件のもと自由な個人を求めた時代とも言えます。この本を読んで、衝撃を受けたのは、高野さんのそうした思考のあり方です。自己に、他人にこうまで強い興味を持ち、内省的に思考しているのだ、ということに強く驚かされました。

 私自身はというと、生まれた時から、ある程度自由主義に解放された身であり、むしろ何らかの文脈の中に自己(同一性)を見出すようなーーひょっとすれば、文脈に自己を埋め込みたがるようなーー思考をしているような気がします。その文脈というのは、実家の持つ歴史(性)・文化(曽祖母の早逝で50年前と比べかなり平準化・変容したものでありますが)であったり、カッコ付きの「郷土」「ふるさと」ーーすなわち、柏原と周辺の王寺、三郷、河内長野など)ーーであったり、大学やサークルで通う一乗寺、吉田、雲ケ畑の学校/地域社会であったり。
 大学で地理学や都市論を学び、最近では社会学に興味を持っているように、人間を取り巻く社会の文脈について、私は強く興味を抱いています。しかし、それらを構成しているーー同時にそれらに構成されているーー「個」としての人間それ自体については、これまで興味があるように思い込んでいましたが、実はあまり興味がないのかもしれない、と思いました。
 私自身の行動ーー利己行動・利他行動も、「誰か」特定の人のためと思ってしていることのように思い込んでいましたが、よくよく考えてみれば、イエ、地域社会、クラブ、学問と言ったように、社会文脈の枠組みがいつも念頭にあるように思えてきます。

 高野さんと私の思考の違いは、モダニズムーーポストモダニズムのような「時代」に規定されたものであるのかもしれませんが、そう納得しつつも、高野さんが個人としての自己を、他人を、あのようにまで思惟しているのだということはかなりの衝撃でした。自己内省もそうですし、恋愛意識の記述もそうですし、文のあらゆるところにそれがみなぎっている気がします。
 現代に生きる自分の周りの人は、どこまで自己/他人のことを考えているのでしょうか。周囲の人たちーー個人!ーーがもし高野さんほど自己や他者のことを考えていたら、と思うと、怖くて仕方ありません。私自身がわかるのは私自身の思考だけ(果たして、それもわかっていると言えるのかどうかは怪しいのですが…)。このようなことを考えていると、これまで思惟の対象としてきた、個人の集合たる社会が、寸分も理解していないのに、一部を解き明かしたかのように思い込んで陶酔に浸っている私をあざ笑う、得体の知れない怪物のように思えてきます。



 
 この一冊の本を読んで、このような思いを抱くのは、私が私なりの背景ーー文脈ーーを持っているからかと思います(またこんな考え方をしている…)。高野さんも、日記を読んだ人がこのような感想を持つとは思わないでしょう。
 この文学作品は、日記という性質上読みやすいわけでもなく、物語としては面白いと言うわけではありません。しかし、読む人の心に何か及ぼすものがあるのは確かだと思います。読む人読む人の文脈に応じて、それぞれ違う感情を与えるのだと思います。



ーー独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。



 50年前、同じ京都という場に、同じ大学生・ワンゲル部員という立場で、しかし、全然違うように考え、行動し、生きていった女性の胸の内に触れたこと。私自身の考え方、生き方というものを相対化できた気がします。
 ひょっとしたら、この日記は、私にとっても「20歳の原点」になるような気もします。独りであること、未熟であること。私は孤独を感じるがゆえ、社会の文脈に埋め込まれようとしているのであり、そのように向かっていく性格・思考・行動はやはり無骨で粗だらけ。ーー独りであること、未熟であること。私にとって、この言葉から引き出される意味は、彼女とは全くちがうものであります。ーーだけど、それでもやっぱり、どこか通じるところがある気がするのが不思議です。
 20歳になる記念に読んだ本に、とてもふさわしい一冊でした。


 最期の詩が、心に残りました。はじめの部分だけですが、引用しておきます。
ーーーーーーーーーーー
旅に出よう
テントとシュラフの入った
ザックをしょい
ポケットには
一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい
春の雨がよい
萌え出でた若芽が
しっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく……
posted by みさと at 22:55| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月01日

図解 知識ゼロからの林業入門

 関岡東生さん監修の本です。東京農業大学の森林総合科学科の人たちが中心となって書かれています。林学の基礎の基礎がきわめてわかりやすく書かれてあるといった感じです。私は林学が専門ではありませんが、サークルで林業をやっており、また山村にも興味があるので、結構知っている内容が多かったのですが、まとまって確認できたのでよかったです。林産加工の話は全然知らないことばかりで、勉強になりました。
とてもわかりやすいので、林学入門書におすすめです。
posted by みさと at 17:29| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月30日

郊外の社会学--現代を生きる形

 若林幹夫さんの本です。中川理さんの「風景学」を講読する授業を受けているのですが、自分の担当章の9章「郊外風景の没場所性」について発表するため、この本を読みました。ある地理的位置を占めながら、それはほかの街と明確に区別できない「没場所」な郊外。画一的な住宅でつくられた画一的な街並みが60-70年代につくられていく一方で、80年代後半以降はたとえば異国風の、たとえばテーマパークのような、独特な街ができていきます。南欧風の街並みで賛否の嵐を呼んだベルコリーヌ南大沢(八王子市)がその代表格です。このような「個性的な」街並みは、すべてを普遍・合理を旨とし、風景から意味を奪っていったモダニズムに対するアンチテーゼとして生まれたのでありましょう。しかし、こうしたポストモダニズムの街は、これまでの社会的・文化的な文脈とはまったく遊離したもの。南欧風の街は独特であったとしても、それが八王子の南大沢にあるという必然性はありません。これも、どこにあってもよい、「没場所」な眺めといえます。

 私自身の生まれた町・柏原もまた郊外。市にも同じような住宅がたくさん並んだところがたくさんあります。しかし、柏原を考えると、郊外の多様性も同時に見えてくるような気もします。一般に郊外として想起される大規模開発された団地は柏原にはほとんど存在せず、旧村落がスプロール化して郊外化した地域であります。郊外の形もいろいろあります。
 また、郊外に住んでいる住民。同じような街であれば、それを求める(求められる)人も同じようになり、住民の社会的階層も共通していくように考えられます(「青い郊外」「白い郊外」)。しかし、柏原のような旧村落のスプロール化した郊外では、古くから住んでいる元農民と、新しく住み着いた人々がいます。旧住民もライフスタイルとしてはサラリーマン化して均質となっていくという考え方もありますが、精神性を考えるといまだに大きな差があるように思えます。
 また柏原は、新住宅に住んでいる人も旧住民の二、三男がそれなりに多い印象。町内会や婦人会、青年団など地域組織が残っており、むしろ新住民にも拡大しています。このあたりのことを考えても、郊外が「没場所」とは言い切れないと思います。
 とはいえ、柏原を含めた「郊外」は現在進行形で確実に「没場所」化し続けているのも事実です。「没場所」は個々人のアイデンティティ、そして「風景」を揺るがします。
前期に引き続き、このへんの論考を深めていくのをとても楽しく感じます。

 僕の家は(確実には)江戸時代の初期から柏原の地に暮らしています。「郊外」の旧住民という立場。前近代的なものも、近代的(維新的、高度経済成長期的)なものも、ポストモダニズム的なものも、自分の周りをうずまいているのを感じます。
自分自身、「再埋め込み」的な発想をしているポストモダンな人間であることも強く感じていますが、ポストモダンのあり方を客観視し、「再埋め込み」するにしてもいかようにしていくか慎重に考えていきたいものです。
(社会学ほとんどやってないので、むちゃくちゃな論理&認識してたらごめんなさい)

評価:A
posted by みさと at 19:38| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

日本の祭りと神賑

 森田玲さんの本です。祭りを「神事」と「神賑」に分節し、祭りの構造を解説するとともに、だんじり、布団太鼓、唐獅子、神輿などの練り物について詳述しています。
 中でも面白かったのが神輿の節の、「ミアレ型」「オイデ型」「ミソギ型」に神の道行の分類です。あまりおみこしの出るお祭りになじみがないのですが、「神事」「神賑」について考えるわかりやすい例となっていました。
 また幼いころより慣れ親しんできただんじりや布団太鼓がいかに成立したのかも大変興味深かったです。
 祭りのあり方について深く考える基礎知識をつけるとともに、祭事の民俗学的なフィールドワークをするときの指針を与えてくれたように思えます。
 在野の方の本ですが、参考文献もかなりしっかりしているのでおすすめです。

評価:A
posted by みさと at 16:50| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

生駒の神々 現代都市の民俗宗教

生駒の神々 現代都市の民俗宗教

 宗教社会学の会編の本です。大阪と奈良の境に位置する生駒山地は、宝山寺、石切神社、信貴山寺などの大きい寺社とともに修験系、朝鮮系などを含めた中小の寺社がたくさんあります。所謂檀家や氏子をもつとは限らず、ある機能に特化したご利益(石切さんが「でんぼの神さん」であるように)を持ち、都市民衆が現世利益を祈願する寺社が多いという特徴があります。また既成の宗派の枠に収まらず、独特な民俗宗教的特色を持っているというのも注目すべきところ。
 大阪という大都市が近くも急峻な斜面、豊富な滝場を持つ生駒は聖と俗の境界性を持つ場所であり、民俗信仰の集積地となっています。宗教というものは合理性を重んじる近代都市と対立するもののように思われますが、生駒の神々は近代都市の存在ゆえに今も存続し続けているもののようにも思えます。それは都市が合理性ゆえに人間を疎外していることへのアンチテーゼというのも一つですが、いくら都市が合理性を旨としていても人間という不確実性に富んだものが集積する以上、都市もきわめて偶然性の強い生物的存在であるということも一つだと思います。その偶然は近代的な介入ではいかんともできないことも多く、神頼みという行為がいまだに力を持っているのでしょう。
 私の実家からはきわめて近いところに位置していますが、石切さんも生駒の聖天さんも意外と行ったことがない場所(幼いころに、というのはあるかもしれませんが…)。石切の辻占いや生駒新地の話はかねてから聞いており、この本で知ったことも踏まえて近く訪問してみたいな、と思っています。
 信貴山の大宇宙教断食道場は、ふらふらしているときにたまたま見つけて「なんやこれ」と思った記憶があります。そのあたりのこともいろいろ知れて面白かったです。
 かなりディープな生駒の信仰。これまで、柏原市、三郷町、平群町の領域にとどまってそれ以外の生駒山地について全然知らなかったことに気づかされました。生駒、東大阪、八尾ももっと深く探求してみたいと思います。

評価:B
posted by みさと at 15:56| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

文化人類学入門

 祖父江孝雄さんの本です。人類学は以前から興味があったのですが、なんだかんだで結局一冊本を読み、授業を一つ受けだだけにとどまっていました。人文地理学、建築史と並んで私の所属する学系(文化環境学系)の専門で、私の興味のある分野と隣接した学問なのでしっかり学んでみたいな、と思って入門書を読んだ次第であります。
 内容自体は平易で、一般的な教科書類と比べると圧倒的に読みやすいです。ただ、書かれたのが昭和54年であり、かなり古い本であります。平成2年に増補改訂版が出されたようでありますが、こちらでも早27年前。とはいえ基礎の基礎を身に着けることはできたと思いますし、これからもっとたくさん文化人類学の関連書籍を読んでいきたいな、と思いました。祖父江さんは県民性の研究で有名ですし、そのあたりの本も読んでみたいです。

評価:B
posted by みさと at 12:46| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

外道クライマー

 宮城公博さんの本です。私がワンダーフォーゲル部で行っている「沢登り」という行為。それを極限まで追求している宮城さんの体験談が書かれています。那智の滝登攀(失敗)、タイでの50日近いジャングル探検(連続遡下行)、台湾・チャーカンシー初遡行、称名滝冬季初登攀……。軽妙な文体で色々な意味ですごい記録が盛りだくさんです。
 宮城さんはワンゲルの先輩たちと考え方がどこか似ているなー、と思いましたが、ワンゲルの先輩たちがこれを読んで大いに影響をうけているのかもしれません。私自身は、宮城さんをすごいな、とは思いますが到底こうした思考になることはできないな、と感じました。

 解説で「山登りは反社会的な行為」だということが書かれているのですが、それを読んで色々と考えさせられました。命を危険にさらして、藪を漕ぎ、岩や滝を上り、泥つきにしがみつく。そこにはほとんど生産性なんてない。大人には「なんでそんな危ないことを」と後ろ指を指される。多くの山ヤ、沢ヤはそれを気にしないのかもしれませんが、私は、そう言われると胸が苦しくなります。社会の矩に従うこと、社会のためになることを旨として(青臭い上に、そうできているかは甚だ怪しいことですが)生きてきた私には、そうした非難に抗弁する術を持ちません。そういわれるたびに、それどころか、下界で日常生活を送り、さまざまな人と触れ合っているだけで常に「沢をやめようか」という思いが心に芽生えてきます。
 一方で、社会的通念へ反発する人への憧れが心のどこかにあるのも確かで、沢登を純粋に楽しいと思ったり、そこでさまざまなこと(生の実感や新たな自然観など)を得たりしていることも事実。実際に沢に行くと、沢を続けたいという気になります。
 こうした葛藤は沢をやる限り永遠に続くのだろうな、と思います。冒険家への憧憬はありますが、自分は冒険家にはなれない。

評価:A
posted by みさと at 12:33| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月18日

グローバリゼーション・パラドクス

 ダニ・ロドリックさん著、大川良文さんと柴山桂太さん訳の本です。国民国家と民主主義とハイパーグローバリゼーションは鼎立しないという「国際経済のトリレンマ」を骨子に盲目的なグローバリゼーションを批判しています。
 詳述はしませんが、わかりやすいようにこれまでの例を挙げてみると
国民国家+民主主義:ブレトンウッズ体制
民主主義+ハイパーグローバリゼーション:ユーロ体制 (世界政府)
国民国家+ハイパーグローバリゼーション:金本位制
であります。ロドリックさんは、歴史・経済・政治の観点からグローバリゼーションを適度に抑える一つ目の選択肢を提唱しています。
 実はこの本は授業の教科書として読んだもので、その授業を担当したはったのが訳者の大川さん(非常勤講師としてですが)。また別のコマでは柴山さんの授業も受けていました(柴山さんは私の学部の先生!) ということで親しみのある人たちの訳したもので、興味深く読むことができました。
 とはいえ、全くの畑違いの分野で、読んでも「なるほど」とか「確かにそうか」くらいで、自分なりの考察は中々出来ません。そもそも根本となるところは理解できますが、細部の理論まで理解できたかというとかなり怪しいところ。
 しかし、私は普段グローバリゼーションを考える時に文化の面やナショナリズムとの関係の面ばかり考えがちでありましたが、貿易・金融面についても考えることができたというのはかなり勉強になったところだと思います。

 知識がなく、他にしっかりした経済書を読んだことがないがゆえに、グローバル経済について語ろうとすると、ロドリックさんや大川さん、柴山さんのおっしゃることの受け売りばかりになってしまっている気がします。もう少しちゃんと語れるようにしたいなぁ。

評価:B
posted by みさと at 23:23| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする