2020年03月30日

感染症禍の中、思うこと

昨今のご時世の下、私たちは言葉の渦の中で生きているのだということを強く感じます。実際に自らが、あるいは身近な人が感染するまで、私たちの殆どは感染症の脅威を視覚や聴覚から得られる「言葉」を通じて汲み取っています。その「言葉」は論文や新聞、ネット記事、あるいは人からの聞きづてなど様々であり、それぞれの信頼度、正確性も様々でありますが、それが「言葉」であることには変わりません。
どんなに遠いところのことでも、「言葉」という媒介を通すことで知ることができる。文明ってすごいなぁ、なんて素朴に思う一方で、私たちの生活のかなりの部分が、「言葉」という記号ーー非直接的な情報によって成り立っているということに不気味さをも感じます。

言葉は、それが記号という代替物である以上、その変換過程で、多かれ少なかれその指し示そうとするものとズレが生じる。そのことは忘れないようにしたいと思っています。

「コロナ」という言葉が、恐怖の記号となっている。記号を介して感じられる婉曲な恐怖は、不気味です。友人のバイト先のショッピングモールで感染者が出たとか、勉強会仲間の里が封鎖されそうだとか、不穏な知らせが日々入ってきます。恐怖が次第に歩み寄ってきて、急激に掴みかかってくるような妄想。多分、世界中のあらゆるところでこれが現実になっていっている。しかし、あくまで(私にとってですが)まだそれは記号です。過度に恐れず、適度に恐れて生きたいのものです。
posted by みさと at 21:06| 奈良 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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