2019年07月06日

グレート・ギャツビー(S・フィッツジェラルド)

 村上春樹訳で読みました。アメリカ文学に触れることは普段あまりないのですが、友人に声をかけられ、手に取ることに。

 華やかなパーティを毎週開く謎めいた隣人・ギャツビー。そこには煌びやかな男女が集まり、宴を楽しんでいた。ある日・ニックもパーティに招かれるが、そこに集う人々はギャツビーのことをろくに知らず、悪意ある噂ばかりを口にしていた。

 華やかな中に哀しい色の浮かび上がってくる物語であります。ギャツビーが大邸宅を買い、盛大なパーティを度々開くのは、過去に恋愛関係を持っていたデイジーと再び結ばれんとするため。
「ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。あしたはもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れたあさにーー
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間無く過去へと押し流されながらも」(p326)
 華麗なる過去を未来に再び手にせんとしても、その試みを果たすことはとても難しい。東京五輪、大阪万博、現代日本でも、高度経済成長やバブルを懐かしみ、再現しようとする風潮がかんじられます。こうした空気感と、この物語がどうにもかぶるようで、少し座りの悪い心持ちを感じます。
 この物語では結局過去を手にすることはできず、哀しい結末を迎えてしまいます。悲惨な、悪意の介入した取り違えからギャツビーは死を迎える。パーティにはあれだけ人が集っていたのに、葬式に参列したのは彼の父親と使用人、主人公・ニック、「フクロウ眼鏡の男」だけ。無主となった屋敷には野次馬が集い、子供に卑猥な落書きがされ、荒れ果ててゆきます。。ギャッツビーの父親が死んだ息子の栄華を悲しくも誇らしげな態度で受け入れるのが、なんとも哀れで痛ましい。
 川を挟んでデイジーに向かって暮らし、プールで最期を迎えるというように水が彼の人生において印象的でありますが、これも時間の比喩のようにも読み取れます。隔てるもの、流れ行くものとしての川、淀み溜まるものとしてのプール。
 デイジーの魅力的な声は「金」と重ねられています。ギャツビーの生涯を通して、「アメリカン・ドリーム」のような栄華を儚み、悼むのが主題と読むのは、少し日本人的感覚にすぎるでしょうか。
 美しく、悲しく、良い物語でした。
posted by みさと at 09:43| 奈良 ☔| Comment(0) | 読書(他海外文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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