2017年07月03日

〈景観〉を再考する

松原隆一郎さん、荒山正彦さん、佐藤健二さん、若林幹夫さん、安彦一恵さんによる講義録です。それぞれ順に「経済発展と荒廃する景観」、「近代日本における風景論の系譜」、「近代日本の風景意識」、「都市の景観/郊外の景観」、「『良い景観』とは何か」という題目です。
倫理学や経済学、社会学、地理学などそれぞれの論者がそれぞれの立場から景観・風景について書かれています。
この中で一番心に残ったのが若林さんの議論です。近代、土地の商品化による都市化や郊外化を機に、空間は本来的に意味や価値を持たない均質空間だと考えられるようになりました。このため、元来あった土地が人々にアイデンティティや共同性を与えることもなくなり、同じような住宅が広がったり、土地に根差さぬ自由なデザインの建物が建てられるようになったのです。

ここから、若林さんの議論をもう少し詳しく書くと同時に自分の意見も加えていきたいと思います。
空間が均質空間とみなされるようになったということは、土地が市場という単一のシステムの上に乗せられるようになっていることに象徴されます。ニュータウンの開発の際、山を切り崩し、谷を埋めて均質な土地に改造していることにもそれは表れていますし、なによりも、日本全国、場合によっては世界の、都心や郊外住宅地、ロードサイドにおいて、同じような建物が同じように延々と並んでいるという眺めを考えるのがわかりやすいでしょう。時に独創的な建物が建設されたりすることもありますが、それは多くの場合、その土地の風土と遊離したものであり、意味の持たない均質な土地であるからこそ、白いキャンバスのように何でも描けるのです。
 これは私たちが郷土によっていたアイデンティティ(同郷人意識もそうですし、過去の自分と故郷を離れた現在の自分との同一性もそうです)が存在しえなくなるということにつながります。また地域共同体の不成立が郷土へのアイデンティティを揺るがしたということはよく言われていますが、それが風景の崩壊、空間の均質化をもたらし、アイデンティティに二重の影響を与えた面もあります。
 風景の崩壊――景観の均質化がアイデンティティの脱場所化をもたらし、ひいては現在のナショナリズムの高揚につながっているのではないか、とふと思いました。(ナショナリズムにおける「日本」は場所ではなく概念である、とだけ言い捨てしておいて、また気が向けばこのあたりのことも改めて深く掘り下げて書いてみたいと思います。)

評価:B
posted by みさと at 15:21| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(小説以外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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