2012年10月30日

竜田川と関屋川(三郷町)

 今回は「三室山・竜田川」の記事の続編として、竜田川イコール大和川説の理由を解説します。またそれと一緒に、私が独自に温めていた考えをお話ししたいと思います。荒唐無稽な珍説と言われるのは覚悟していますが、読んでいただけると幸いです。あくまで、こんな考え方も出来るのではないか、という程度におとらえください。
 『三郷町史』によると(上巻525頁以降)、斑鳩町と三郷町、三室山・竜田川が、どちらが元祖か証明する際に、三室山とその南端の高山集落はかつて河内国大県郡(現在の柏原市)だったという話を持ち出しています。

ーーーーーーー『三郷町史』より引用ーーーーーーーー
 改東広山照曜峰寺号光徳寺
 山地境内三百町、在河州大県郡山中

 四至 東限三室竜田川 西限太平寺安堂坊
    北限渋谷大和境 南限青谷村亀瀬川
 右三百町  御寄附

 上卿 日野中納言藤原朝臣家光宣
  安貞二年十一月八日 修理亮平朝臣時氏 奉
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 この後堀河天皇が雁多尾畑光徳寺に賜った文書の、「大県郡山中」にある境内の東限が「三室竜田川」であることから、三室山、そしてその範囲に含まれる(町史は東端としています)高山集落は元来河内国所属、古代の竜田川は現在の大和川だと示しています。

 ここまでが、『三郷町史』などの述べる定説です(ほかにも理由はあるそうですが)。しかし、待って下さい。「三室竜田川」で竜田川が大和川であることにはならないと私は思います。『町史』は「三室山の末端が竜田川に接していたから」としていますが、それではあまりにも不自然な気がします。それよりは素直に竜田川が北から南に流れており、それが国境となっていると考えた方がしっくり来ます。
 かと言って、現在の竜田川(旧平群川)では『三郷町史』の指摘通り大県郡山中を逸脱してしまい、やはり矛盾が生じます。となると、現在の竜田川より上流、三室山付近に北から南に流れる川を探せば良いということになります。該当するのが三郷駅の東の「実盛川」、西の「関屋川」さらにもう少し西、現在の県境近くにある今ではただの溝の「立田川」です。
 さて、どれが「竜田川」なのでしょうか?
 実盛川を境界とすると、三室山から少々離れているのでわざわざ「三室山」と書く必要がなくなってきます。更には、北方の今井集落まで「河内国」となってしまいます。これは後に書く『大和誌』の立野属邑七の記述がどうひねっても成り立たなくなるので間違いとなります。
 立田川も不適当かと。まず、川幅が狭すぎです! 昔はもう少し広かったとしても限度があると思います。名前はそれっぽいのですがね……。
「龍田河 紅葉乱れて ながるめり
              わたらば錦 中やたえなむ」
 これは竜田川を徒歩で渡り、錦を裂くように進んでいく歌ですが、この歌がとても成り立たないです。ちなみに、この歌からも定説を否定できるかもしれません。王寺から亀の瀬のあたりは水深が浅く、また流れが急で、紅葉が浮かんでもとても錦には見えないでしょう。もし仮に見えたとしても「錦を裂くように歩くことはできないと思います。
 さて、残ったのが関屋川。川の名前の「関屋」というのは、河内大和国境の「竜田の関」が置かれていることから名付けられたのでしょうね。川幅は狭いですが、昔はもっと広かったかもしれません。名前も国境の川に当てはまりますし、場所も三室山沿いに南北に流れる。これが一番適当ではないかと思いました。
 また、南限の「青谷村亀瀬川」に注目して下さい。『三郷町史』は竜田川が大和川であることを証明したいのに、同じく大和川の別名・「亀瀬川」が出てきます。現在の大和川が二種類の呼び名で呼ばれるのも不思議な感じがします。ここからも、竜田川イコール大和川が必ずしもそうでないというのが考えられますね。
 以上のことからまとめると、いにしえの竜田川は現在の関屋川でもともとの国境の川、そしてそれより西にある三室山と高山集落はもと河内の国所属。いかがでしょうか……?
 もっとも、藤原道長の竜田川を詠んだ歌のうちに、大和川の「亀ノ瀬」が出てきたと思います。このあたりを見ると竜田川大和川説も間違いではないと思います。しかし、現在の竜田川(平群川)のように、一時期関屋川が竜田川だったという可能性も完全に否定することは難しいです。
 案外、関屋川・大和川をともに含めたあのあたりの川の総称が「竜田川」だったのかもしれません。私はそう思っています。
 また能楽「龍田」での竜田川は、あらすじ(僧が大和の寺社を巡り終えて河内へ行くとき、最後に龍田大社にお参りする。その手前、竜田川を渡ろうとすると……)から考えると関屋川の東・実盛川が適当だと思えます。大和川に抜け道がありそうにないですし……。やはり「竜田川」は河川の総称であったと考えると自然ですかね。


 現在の関屋川。普通の都市河川となっています。今の姿からでは人に信じろと言う方が難しいですが、これが昔の竜田川だとしたら……と思うとわくわくします。
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posted by みさと at 22:41| 奈良 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 郷土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。
>いにしえの竜田川は現在の関屋川でもともとの国境の川、そしてそれより西にある三室山と高山集落はもと河内の国所属。いかがでしょうか……?(三里 千秋さん)
以前に三郷町史の根拠のひとつだったかもしれない某氏(名前失念)の論文を読み、竜田川=大和川説が現在の通説であることを知り、そのときはそれを鵜呑みにしておりましたが、いま偶然あなたの説に接しまして、その論理的なことに感心しました。もちろん私は歴史学などにはずぶの素人でどちらが正しいなどと判定できるはずもありませんが、あなたの御説を支持したい気分です。そのときは納得していました某氏の論調は今思い返しますと幾分情緒的に過ぎたのではないかという気がしてきました。それにしても中学生(今は高校生になられたようですが)のあなたのレポートに感心しました。ますます勉学に励まれることを祈っています。

初めてのお邪魔で異論を唱えるのは不躾かと思いますが下記の部分につきましてだけは小生は少し別の意見です。
>案外、関屋川・大和川をともに含めたあのあたりの川の総称が「竜田川」だったのかもしれません。私はそう思っています。(三里 千秋さん)
現在では大和川水系というような総称的言い方がありますが、少なくともあの幅の広い大和川本流と関屋川その他を一緒くたにする(すなわち別の名前で呼び分けない)のは、歌詠みだけの遠方の都人ならやむをえないかもしれませんが、当時の地元の人には考えにくいのではないでしょうか。自分勝手な意見、失礼お許しのほど。
Posted by jack77betty at 2013年07月26日 17:52
 はじめまして。コメントありがとうございます。
 お褒めいただきとても光栄に存じます。中学生のときに書いた文章なので、読み返すと少し恥ずかしいです。

 さて、ご意見ありがとうございます。それについてなのですが……
 私は河内長野の学校に通っているのですが、学校の近くに石川が流れております。石川と天見川が合流する付近なのですが、我々は、石川本流も天見川もどちらも「イシカワ」と読んでおります。地図上の天見川は、「アマミガワ」と「イシカワ」、二つの呼び名があるのです。他にも柏原の恩智川に流れ込む渓流を全て恩智川と呼んだりもします。
 そのような例がどれくらいあるのかはわかりませんが、私はそれを特別だと思っていなかったので、ご指摘を受けて驚きながらもなるほど、と思いました。
 同一資料内で二つの名前を使うのは違和感はありますが、呼び名がいくつもあるのは珍しくないと思っていました。
 それに、「地元」とおっしゃいましたが、参考にした竜田に関する資料は、主に奈良や京都の都人が残したものが多くを占めます。たとえ地元で関屋川、亀瀬川、塩田川(文中での平群川)と個別に呼んでいたとしても、資料を残した都人が合わせて龍田川と呼んでいたのかもしれません。
 尤も、所詮現代人の感覚ですので、古人がどう考えていたかは最早薮の中ですが……。
Posted by 三里千秋 at 2013年07月26日 20:24
私も大和川の古名説には山稜や川幅の具合から疑問を抱いていました。ご説明の奈良や京都の都人の表現も考慮した総称との考え方には近代的合理主義の臭気を感じますから、それに与する必要はなさそうです。
三室山との位置関係から、名称発端を関屋川に置いてもよさそうに思いました。
コロナも少しは治まるであろう今秋、私も現実の関屋川を前にしつつ、瞼を閉じてわくわくしたく存じます。
Posted by AYAME at 2020年04月28日 22:57
コメントありがとうございます。中学生の頃に書いた記事で拙いところも多く恐縮です。

先日、日本建築学会近畿支部に投稿する論文で竜田に関する近世以降の論争史を整理したのですが、関屋川や実盛川とする説は、近世の立野や雁多尾畑の人によって伝承されています。論としてこの説をとっている史料には、橘守部 (1839)『鐘の響き』や片岡英宗(1923)『中河内郡誌』が挙げられます(いずれも「関屋川」としてではなく「立野の小流」「雁多尾畑の小流」として紹介しています)。

記事で述べた後堀河天皇宣旨に則れば関屋川が適当だと思うのですが、その他よく竜田論争で参照される和歌類は詠まれた背景やその解釈が難しく、近世国学者の中でも喧々諤々の議論があり、国文学の訓練を積んでいない私の実力で評価するのは難しいと感じており、自分の中では未だ結論を保留している状態です。
 題詠なのか、現地詠なのか、また題詠としたらどれほど地理認識が正確であったのか、現地詠としたらその現地は誰が案内したのかなど、中々和歌の解釈は難しいです。もちろん歴史学の史料批判もそうなのですが、、。


いつも友人を「竜田」に案内する際、龍田大社を参拝した後竜田山/三室山(柏原市方面)に登山するまでに関屋川を渡ります。その時には色々な説を紹介しながらも、この関屋川説も紹介しています。
また今秋にも、心地よく古の竜田をしのぶ旅ができれば、と願っております。
Posted by 三里千秋 at 2020年04月29日 14:05
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