2012年10月28日

本堂 〜〜渡来氏族の歴史が息づく山里〜〜(柏原市)

 今回は柏原市の北端にある山里・本堂集落について紹介します。

 この集落は高井田から府道183号線沿いにずうっと行った先、奈良県に入る直前にあります。堅上の他のどの集落よりも、三郷町の南畑集落に近く、雰囲気も近いです。もはや竜田山というより、信貴山といった感じです。十数戸の小さな集落ですが、竹林寺・生安寺と二つのお寺があります。現在の人口は二十数人ですが、大正時代には150人近い人が住んでいたそうです。
 地名の由来は信貴山朝護孫子寺の本堂があったということだそうです。現在は生駒郡平群町の大字信貴山にあり、奈良県の観光地として有名な朝護孫子寺ですが元々は河内国にあったのですね。この話を聞いてとてもびっくりしました。龍田大社も信貴山寺と同じく河内国大県郡域、つまり現在の柏原市域でした。現在も残る雁多尾畑光徳寺もありますし、いまはなき智識寺をはじめとする河内六大寺もしかりです。古代は大県郡域に、本当に大きな寺社が集中していたのですね。
 本堂は、古くは高句麗系の渡来氏族・狛氏が住んでいた「大県郡巨麻(こま)郷」と呼ばれる土地でした。狛氏は現在も残る大狛神社を崇拝し、栄えていたそうです。本堂西古墳群はおそらくこの狛氏のものだとされ、出土した「瑞花鳥蝶文鏡」は大狛連か大狛造の族長の宝器だったと推測されています。ひょっとしたら、高井田横穴古墳群など、この周辺の多くの古墳は狛氏関連のものかもしれませんね。大県・雁多尾畑に製鉄技術を持ち込んだのも狛氏かもしれません。神宮寺の赤染氏と関わりがあるのかも気になりますね。
 これは『柏原市史』による推測ですが、朝鮮半島新羅が百済を滅ぼした際、日本はその余波が日本に及ぶことを恐れて各地に城塞を築きました。この本堂や南畑一帯にも「高安城(たかやすのき)」という城が築かれました。これは朝鮮式の城で、外敵が大和へ侵入するのを防ぐ為のものです。そのとき敵の脅威から守ってもらう為に、四天王を祀ったという話があります。おそらくこれが信貴山朝護孫子寺、ひいては巨麻郷・本堂集落の前身と成ったのでしょう。
 本堂はおそらく現三郷町の南畑、現平群町の信貴畑と同じ文化圏で同じ系統の氏族、あるいは寺社が作った集落です。なぜこの本堂集落だけなぜ大和国ではなく河内国だったのでしょうか? また、それと信貴山寺本堂の移転は何か関係あるのでしょうか? 本堂集落と信貴畑集落との間で何かもめ事があったのかな、などと勝手に想像していますが……。
 古い地図では「堅上小学校本堂分校」の記述があります。また、『柏原町史』にも「昭和23年本堂分教場を設置する」という記述がありますが、現在の地図には書いていません。柏原市HPによると「本堂集落に未成年がいない」そうです。最後の小学生の卒業とともに休校になってしまったのでしょうか……。実際に行ったところ、校舎らしきものは見当たらなかったので、江戸明治のようにお寺かどこかで授業をしていたのかもしれません。
 周辺には先に述べた信貴山毘沙門天以外に、信貴山のどか村、奈良産業大学などがあります。


 本堂の町並み。大和棟の家が多く、南畑と共通した町並みに見えました。歩いていてとても傾斜が急なところに立っているのがよく分かりました。人口の割にはたくさんの人とすれ違いました。やはり、第一次産業の従事者が多い農村の特徴を残しているからでしょうね。南から府道沿いに歩き、南畑へ行く途中に通りましたが、雁多尾畑から遠く離れていました。南畑からは本当に至近距離にあるのが分かりました。
 大変静かで綺麗な風景で、歩いていて気持ちよかったです。
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posted by みさと at 11:30| 奈良 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | あの街この町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
本堂の分校は少なくとも35年前には廃校となっていました。1985年ごろも数人が本堂から堅上小学校に通っており、子供が居なくなり廃校になった訳では無いようです。その当時、信貴山からの遠足帰りに、分校跡に立ち寄った記憶がありますが、老朽化も進んで取り壊されたのかも知れませんね。
Posted by at 2018年05月27日 21:02
 コメントありがとうございます。

 私も6年前にこの記事を書いてから、「本堂の子が雁多尾畑まで歩いて通ってんで」という話を聞きました。
 そうですね。今は学校らしき建物はありませんし、取り壊されてしまったのでしょうか。探してみれば、どこかに写真なども残っているかもしれませんね。

情報ありがとうございました!
Posted by 三里千秋 at 2018年05月29日 13:53
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