2019年08月30日

日本近現代都市計画の展開 1868-2003(石田頼房)

 明治以来の日本の都市計画の歴史をまとめた本です。石田氏は東京都立大学の名誉教授で、都市計画市の研究で日本建築学会賞まで取られた方。かなり巻末の年表を除いても334ページとしっかりめの分量で、中々読み応えがありますが、内容自体は比較的わかりやすいかと。
 135年を9期に分けて、都市計画の変遷をまとめています。1期は1868-1887年の欧風化都市改造期。銀座煉瓦街建設や日比谷官庁集中計画など不平等条約の改正を目指して鹿鳴館的な都市改造を行おうと試みる時期であります。2期は1880-1918年、伝染病や大火など劣悪な都市居住環境を背景に、東京において日本発の都市計画法制である東京市区改正条例(および土地建物処分規則)を施行する時期。3期は1910-1935年、1919年都市計画法と市街地建築物法が制定され、全国的な都市計画が一応整った時期で、都市計画区域や地域地区、都市区画整理や受益者負担など新しい技術・制度が導入されます。また関東大震災に対応する復興都市計画事業は都市の近代化を進める絶好の契機になりました。4期は1931-1945年、戦時軍国主義の下、都市計画の進歩が中断する一方で、植民地において先進的な都市計画の試みがなされた時期であります。5期は1945-54年で戦後復興都市計画の時期、6期は1955-1968年で都市計画法の改正が流産し、大規模な公的・民間のプロジェクトで水準の高い市街地もできる一方で、混乱した土地利用、無秩序な開発も進んで行きます。7期は1968年に新都市計画法が制定され、都市計画が地方自治体へ機関委任事務として委譲され、住民参加制度や線引き制度などが導入され民主化と土地利用規制強化の方向に向かっていく時期であります。8期は1982-1992年、中曽根内閣の新自由主義政策により前期とは逆方向に規制緩和が進んだ時期で、「反計画」の時期であり、バブル経済にも繋がります。9期は1992年以降で市町村都市計画マスタープランが創設され、新自由主義の流れを残しながらも地方分権・住民主体の時期に入ったとみなすことができます。

 中央ー地方関係や住民参加、諸技術・制度の進展、財源問題など、様々な論点を含みながら、都市計画が現在まで変化してきたのだということが、短くも複雑で膨大な歴史の中から感じ取れます。
 色々本を読んでいてどこでも述べられているのが、日本は土地は個人の財産であり、土地の利用制限をかけることは私権の侵害だという意識が強いということ。ドイツなどの諸外国では必ずしもそうではなく、土地の公有意識が強く、積極的な都市計画、地区計画、景観計画がなされています。基本的に都市計画系の方は後者が良く、日本は遅れているという論調で語りますが、この辺りはもっと人文系の知見も交えながら議論しても良いのではないかというような気もします。西村幸夫さんの本を紹介した時も書いた気もしますが、なんだか、都市や地域を操作する対象として扱っている感が強い。
 レルフであるとか中川理氏であるとか、「場所は人格と不可分であり〜」という考え方は現象学の影響を受けた地理学や建築学ではかなり根強いものであると思うのですが、こうした人文主義的地理学の考え方をこの都市計画・土地所有の文脈で語られるのは聞いたことがありません。私自身地主の末裔ということもあるかもしれませんが、公が強権的に操作を行うより、公共よりも共同の視点から所有する者が社会への責任を持って、土地を管理運用することが必要なのではないか、という価値観を持っています。とはいえ、都市計画の近代史を見ていると、自由な土地利用を許して都市環境が悪化して言ったのも、否定できない事実。なんとか、民衆の公共(!)意識を育てることができれば、良いのですが、、、。思いつきで好い加減なことを書いてしまいました。もっと色々勉強しながら考えてみたいと思います。
 日本人の土地意識といったものを、日本思想史や農史から考えた論文みたいなのってないのでしょうか。また調べてみようかな。
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2019年08月26日

図説 西洋建築の歴史 美と空間の歴史(佐藤達生)

 西洋建築史の入門書。分量的には簡潔なものではありますが、よく整理されていてとてもわかりやすい一冊でした。
 西洋建築の様式をただ時代に沿って並べるのではなく、「柱」と「壁」の建築論的分析をもとに古典系、中世系の二流に分けてまとめているのがとてもわかりやすい。前者は古代のギリシア、ローマ建築を起点に、近世それらを典に復興したルネサンス、そこから宗教改革を背景に発展するバロック、さらに考古学の発展によってより正確にギリシャ建築の復興を試みた新古典主義に至る流れ、後者はローマ建築を学んだゲルマン人による初期キリスト教建築をもとに、修道院を中心に発展した重厚なロマネスク、そこからより軽快な昇向性のある神聖な空間を完成させたゴシック、ロマン主義を背景に中世の復興を試みたゴシック・リバイバルに至る流れであります。前者は重力を「支える」ものである「柱」を造形原理とし、後者は神聖なる空間を「囲う」「壁」を造形原理としています(構造自体は、ゴシックのフライングバットレスと控え壁に見られるようにしばしば入れ替わりますが)
 言われてみれば当然ではあるのですが、このような整理の仕方は中々新鮮で興味深かったです。教科書的ではありませんが簡潔にある程度要点も抑えられているため、勉強にちょうどよかったです。
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2019年08月23日

図説・近代日本住宅史(内田青藏他)

 今回は日本の住宅史。少しなニッチなところで院試の対策になるのか微妙なところですが、長らく積読していたので、これを機会に、と読みました。
 この本、表紙のデザインがとても良い。建築の立面や平面、写真が白や黒の方形幾何学模様と混じって、とてもおしゃれです。中身も図版たっぷりで眺めているだけで楽しい本です(一回生の頃買って眺めているだけで三年たってしまいましたが汗
 官民の運動や国内外の事情を参照しながら近代の住宅様式を追って行きます。住宅様式は西洋化や合理化を基調に、それに反発する伝統住宅の見直しなどを含みながら変わって行きますが、それは人々の生活の変化とともにあることだとわかります。私が普段使っている立ち流しタイプの台所が普及したのもそう古い昔ではありません。たった100年前の生活は今と全く違うものであったことを思うと、なんとも不思議な気持ちがします。今から100年後、私たちはどのように暮らしているのでしょうか。
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2019年08月22日

勝手にふるえてろ(綿矢りさ)

 試験勉強の合間に。あんまり普段読まないタイプの小説ですが、ふと部室の本棚にあるのを見かけて、手に取りました。元々叙情よりも叙事的な話が好きな上に、大学生に入ってから古い小説ばかり読むようになっていたため、現代の恋愛小説は滅多に読まなかったのですが、時代も主人公の年齢も近く、物語が等身大な感じがして良かったです。

 主人公は26歳のOL。オタク時代が長く、恋愛経験もなかったのですが、熱烈にアプローチしてくる同僚が現れます。一方で、中学時代片思いしていた、ほとんど話したこともなかった同級生と接触する機会も発生して……。愛することが幸せか、愛されることが幸せか。豊かな表現力と妄想力で、そんな彼女の葛藤を描きます。

 正直共感ができるかというと、(私がそうした情の薄いところもあって)そんなにできないのですが、極端なまでの感情の動きが表現豊かにテンポよく描かれていく様はなんとも痛快です。
「処女とは私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついてる持ち手のビニールの覆いみたいなもので、引っ剥がしたくてしょうがないけど、なんか必要な気がしてまだつけたままにしてある。自然にはがされたらしょうがないけど、無理やり取っぱらうのは忍びない。イチがやさしくぺりぺりはがしてくれるなら、もう本当に文句なしなのだけど」(p80)
 等身大で、表現力豊かで、勢いの良い言葉の言い回しのリズム感がこの小説の魅力であります。


 表題作が著名で人気も高いですが、一緒に収録されている「仲良くしようか」が掴みにくいながらもとても心を惹く作品であります。夢の中にいるような、断片的な話が、空想的なモティーフを交えつつ続いていく。『勝手に震えてろ』の緩急、高低あるリズム感も良いのですが、この作品の、どこか陰鬱な空気感のもと水のように流れていく旋律にいたく心引かれます。清冽でおぞましい美しさの中に、筆者の痛烈な社会や自己へのニヒリズムというか、暗く鋭い刃がきらめいてる感じ。
 久しぶりに、心が震える感じがしました。院試勉強しないといけませんし、あまり余韻に浸っていてはいけませんが、いつか、読み返して、じっくり、味わいたい。心からそう思います。
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2019年08月21日

都市計画の世界史(日端康雄)

 今回は都市史のおさらいをすべく、この本を読みました。日端康雄さんは慶應SFCの先生で都市計画の専門家ですが、本書では都市史の概説が簡潔にまとめられています。
 1.城壁の都市、2.都市施設と都市住居、3.格子割の都市、4.バロックの都市、5.社会改良主義の都市、6.近代都市計画制度の都市、7.メトロポリスとメガロポリスという章立てです。なんとなく歴史に沿って並べられてはいますが、都市の成り立ち、形状ごとに章を作っています。純粋に歴史通りに並べられるよりも、それぞれの観点において比較ができてよかったです。

 民主主義の基盤となったギリシャのアゴラ、「周礼考工記」をモデルとした長安の都城制、平安京と平城京の町割りの違いと変遷、公衆衛生の悪化を背景としたオースマンのバロック的なパリ大改造、自律的なユートピア社会主義的でありながらも実現にいたり後代の都市計画に多大な影響を与えたハワードの田園都市構想、各国の近代都市計画の形成に至るまで、都市史として抑えておくべき要点は網羅し、整理されていました。。あとはアメリカにおける都市美運動、オルムステッドのセントラルパーク建設、パークシステムあたりの緑地計画関係も、田園都市との文脈でもう少し把握したかった気もしますが、そこまで行くと都市計画史というより造園史の領域になってしまうのでしょうか。

 概説書だとどうしても羅列的になりがちですが、わかりやすくまとまっていて読みやすく、勉強になりました。都市史の全体像を抑えたい方はぜひ。
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2019年08月20日

近代建築史(石田潤一郎・中川理編)

 近代建築史の概説書です。またか、といった感じではありますが、大学で勉強しなかった割に、頻出なので、これでもかって感じで読んでます。さすがに三冊目になると、大分知識が身についてきたような気も。これまで読んできた他の二冊(鈴木博之さん、大川三雄さん)の本よりも、分量が多いのもあってか内容は詳細であった印象。レイアウト的には鈴木さん、日本近代建築史も詳述しているのが大川さん、全体的に一番詳しいのがこの本、といった感じでしょうか。)

 最近、生活と芸術の交わりについて、心惹かれます。昔から農村風景や民俗学が好きでその気があったのですが、近代建築史を勉強していると必ず出てくる「アーツ・アンド・クラフツ運動」が心に引っかかります。
 この運動は、産業革命による大量生産の粗悪な商品が出回る時代背景のもと、中世における建築と労働のあり方に芸術や建築の理想を求めたジョン・ラスキンの思想が基礎となり、ウィリアム・モリスらがその思想を実践し、職人的に作られた工芸品的芸術を創作・称揚する所から広がって行きました。多くの中世的な職人ギルドが結成され、展覧会の開催にまで至ります。この運動は近代主義への反発という意味も含みながら、アール・ヌーヴォーやウィーン分離派の建築に繋がり、様式建築から脱した近代建築の源流となりました。日本においては日用品の中に「用の美」を見出す柳宗悦の民芸運動に繋がってゆきます。
 院試が終わったら、ラスキンやモリス、柳宗悦、加えて今和次郎、路上観察学会あたりの思想や活動について本を読んで行きたいと感じます。やりたいことがどんどん増えて行きますが、院試勉強もいろいろなことに対する前提知識ともなるし、知識欲も湧いてくるし、結構役に立つんだな、とも思います。
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2019年08月19日

風景学(中川理)

 二回生の頃に読んで、風景について興味を持つきっかけともなった本であります。中川さんは京都工芸繊維大の建築史・都市史の先生です。風景や景観について蓄積された議論の整理を試みた本で、院試勉強にも役にたつかな、と思って再読しました。当時よりも大分知識が増えたこともあり、この本自体の理解も進みましたし、風景論についての頭の整理にもなりました。中川さんの整理においては、近代の主客二元論に関する認識の変化が風景論の根底にあります。恥ずかしながらあまり哲学や思想に関して詳しくないのですが、これを機会に、(院試が終わったら)哲学の勉強も重ねたら楽しいだろうな、と感じます。

 院試勉強のため、頭に入れたい知識を詰め込んだため長くなってしまいましたが、ダイジェストにしてみました↓

 本書の議論に基づくと、「風景」というものは、デカルトのように主体たる人間と客体客体たる自然を分離して考えるようになった近代西欧において生み出されたものであります。自然は合理的秩序に支配され、客観的に理解することができるものだという思潮が「風景」の発見の根底にあります。「風景」という言葉には、審美的なニュアンスが含まれますが、人を取り巻く自然、環境、そう言ったものを美をもって客観的に認識するようになるのです。17世紀、クロード・ロランらによって、神話的主題の背景ではなく、風景そのものを主題として描く風景画が誕生したのもこの動きに連動したものであります。西欧の場合、「サブライム」や「ピクチュアレスク」という美意識の普及がこれを支えます。
 風景の発見の例として、しばしば山岳が取り上げられます。古くは山岳は人々にとって関心がなく、ただ利用するもの、あるいは利用すらできない忌むべき地として認識していましたが、近代になるとポール・セザンヌの絵に描かれたり、京都の東山が風致地区に指定され、美を持って認識されるようになりました。

 中川氏は、「風景」とは、見慣れた眺めが未知のものとして見え始めた時に生ずる個人的な美の体験が共同化され、美としての評価が広く共有・定着したものと定義しております。この共同化はかつては地縁共同体で行われていたものでありますが、国民国家形成にともない、ナショナル・アイデンティティを発揚する際に利用されるようにもなります。志賀重昂の「日本風景論」がその最たるもので、 日本の山岳風景を地理学の観点から讃えることで、日清戦争前後の国威発揚に一役を買います。
 国土の眺めに価値を共有化する動きには18世紀末から19世紀にかけて欧州各地で展開されたロマン主義の思潮が関わっているとも述べております。ロマン主義は当時の啓蒙主義・産業革命の反動として失われつつある自然に価値を見出そうとしました。ドイツではルドルフという音楽家が失われつつある自然を守ろうと郷土保護運動を立ち上げます。しかし、こうした自然保護はあくまで風景という視覚的現象を守ろうとしたものにすぎず、環境倫理に基づくそれは19世紀後半各国で始まる国立公園制度を待たねばなりません。

 人々の住空間を風景としてみる際、しばしば歴史が審美基準として取り上げられます。しかし、この時取り上げられる歴史は、しばしば讃えるべきところだけを取り上げた偏ったものとなり、人々の生活の中で生成される歴史は等閑視されます。この自体に対して疑義を掲げたのが、ジェーン・ジェイコブズであり、ドロレス・ハイデンであります。

 風景の誕生が近代の主客二元論に基づくものであったということは前述の通りですが、これは同時に環境を人が支配すべき対象であるという認識も生み出します。客観的な正確さを持って環境を捉えるために、近代では視覚が他の感覚を凌駕して行きます。透視図的、遠近法に基づく絵画表現がその芸術史上での現れであります。
 遠近法的な眼差しは近代の人間の対象を知り、支配したいという欲望にも結びついて行きます。「風景」という「精神の世界」と並行して支配的・操作的な「物質の世界」が生み出されていくのです。建築の世界でのこの現象がル・コルビュジェをはじめとするモダニズムであります。モダニズムは世界の合理化という普遍原理のもと、汎世界的な、均質な、自由な空間が形作られて行きます。

 こうしたモダニズムは眺めから「意味」を奪っていったとされます。しかし一方で、「意味」を回復しようという試みもモダニズム勃興期より見出され、19世紀末のアメリカ「都市美運動」の中にも見られます。その中でもオルムステッドはいち早く都市における自然美の重要さを主張し、衛生状態の悪化が懸念されていたニューヨークにセントラル・パークを設計します。彼はランドスケープアーキテクチャの父とされています。
 セントラルパークでは、イギリス風景式庭園の「ピクチュアレスク」の美意識が参照されましたが、19世紀に歴史主義建築が流行したのも、都市に「意味」を与えようとする試みの一つであると考えられます。
 また、コルビュジェの「300万人のための現代都市」には樹木が多く描かれるように、モダニズムの建築家たちも「意味」の回復を試みている様子が見られます。彼らは建築単体のみならず、都市の設計にも手を出しています。「ブラジリア」や丹下健三の「東京計画・1960」がその例でありますが、こうした作品群では都市の構造に中心性や軸性が与えられ、「意味」の実現を試みています。しかし、こうした試みは都市をあまりに固定的なものとして捉えていると批判され、若手建築家集団「チームX」によって批判がなされ、日本においては1960年代にメタボリズム運動が生じます。建築家個人の表現行為では、建築家個人のものにすぎず、社会的に共同される「意味」を作ることにはなかなか至らないのです。

 近代社会の進展とともに、地域文化は広く均質化していくようになり、価値を共同化するための基盤となっていた地域共同体の無力化をも招きます。そこで、共同体に依存しない、汎世界的な、普遍的で客観的な価値が求められるようになります。それが、「景観」であります。もともと「景観」という語は植物学者の三好学がドイツ語の「Landschaft」に与えた訳語で、地表の空間的まとまりを表現する場合にも用いられる広い概念を示す言葉でありました。それが、戦後、特に1980年代以降、眺めを都市計画的課題としてコントロールするものとして扱うようになって「景観」という言葉が多く用いられるようになりました。
 「景観」は快適性をもって客観的に評価されますが、その著名な例としては1960年ケヴィン・リンチによる「イメージマップ」の手法が挙げられます。リンチは都市のイメージを形成する物理的要素としてパス(移動路)、エッジ(境界)、ディストリクト(地区)、ノード(結節点)、ランドマーク(目標)が定義され、それらの配置や関係のあり方によりイメージマップを作成し、それによって都市を評価しようとしたのであります。
 また同時期より土木工学から「景観工学」が捉えられ、近代主義で排除されてしまう眺めの価値を、科学的に価値づけることが試みられ、土木建設や都市計画などに応用されていきました。1970年代以降各地で発展する「景観政策」にも取り入れられて行きます。
 しかし、このような主観性を排除した評価は眺めの持つ歴史性などの文化的価値をすくい取れないのではないかという批判も相次いでいます。例えば、歴史的建造物を建て替える際、外観だけ旧来のまま、中身は現代的な工法を使った時、この建造物のオーセンティシティは失われているのではないか、という批判であります。


 近代都市計画によって眺めから失われた「意味」の回復について、人々の生活に注目しようという考え方があります。古くは柳田国男の民俗学やドイツ・ザーリッシュの森林美学に見られますが、1960年ジェイン・ジェイコブズの、都市における人々の生活から生成される多様性・混沌性・複雑性の主張にもこれは強く現れております。
 近代都市計画を乗り越えようとする観点から、生活の眺めを「美」として位置づけるのではなく、計画に活かせるよう客観的に価値づける試みがなされたのが、1960年代以降行われる「デザイン・サーベイ」であります。デザイン・サーベイとは、ある地域に着目し、その物理的構成要素を実測・図面化し、インタビュー調査などで補完することで、フィジカルな個性要素を生活・慣習・歴史と行った文化的な要素で分析しようとするものであります。またデザイン・サーベイは屋台や木賃アパート、スラムなど従来評価されてこなかった空間をも調査し、快適性だけで評価される「景観」ではない、人々の生活、生産、地域の共同性の中から現れる「生活景」という眺めの価値づけの創造につながりました。この流れは、建築史学の中で様式史的な分析ではなく、群として建築をとらえ、都市の生成に関心を向ける「都市史」の誕生とも連動しています。

 近代社会が奪っていったのは眺めの「意味」だけではありません。その土地や風土を他とは区別して成り立たせる意味の総体である「場所」をも奪ってゆきました。エドワード・レルフは近代社会によって「場所」が喪失した状態を「没場所性」という概念で示しています。レルフは「場所性」に注目することで風景や生活景の再生の可能性を指摘していますが、具体的な提案には至っていません。一般市民の生活の歴史に計画の根拠を見出そうとしたドロレス・ハイデンの提案は、この「場所」に注目したものであり、かつ実践的な方法論を説いたものであると評価をすることができるでしょう。
 レルフは没場所性の舞台として郊外をあげています。郊外に居住する人は都市との関連だけで、どこでも良い所として住み着き、それまでの農村としての歴史を無意味化してしまいます。郊外住宅地においては、イギリスのガーデン・サバーブに見られるよう、ピクチュアレスクな造詣を持って、眺めに「意味」を人工的に与えることが試みられていました。そこに建造された住宅も、様々な歴史様式を持って建てられましたが、規模的な制約もあってそれらは本格的なものにならず、「〜風」の、「まがいもの」の意匠にすぎませんでした。アメリカにおいては、退役軍人を顧客に建造されたレヴィットタウンでは、画期的な量産システムで戸建て住宅が大量に作られ、同じ規模の同じ住宅が並ぶ眺めが現れます。
 こうした近代主義的な画一化した眺めの中で、「意味」を取り戻そうと「個性」を主張する住宅が現れてきます。日本において現れた「ショートケーキハウス」は過剰にまでデザインがなされており、眺めを無国籍化して行きました。この事態の本質には、生活の均質化の反動と地域社会の崩壊があると考えられます。国家の一元的管理と「個」の家庭の間にあったはずの、価値を共同化する上で必要な地域社会がなくなっているのです。

 眺めの「意味」を人為的に作り出そうとする営みは、架空の「場所」を作り出そうとする営みにも及びます。ウォルトディズニー社の開発したセレブレーションの住宅地がその例で、そこではあらかじめ伝統的なデザインがなされた人工の風景が準備されています。さらに、ディズニーランドのように、ショッピングモールや遊園地にも、テーマ性を持った、人工の「風景」が広がっています。
 しかし、こうしたところでは実態としての人の営み、「風土」は存在しえません。ボードリヤールは、実存する指示対象を欠いた表象やイメージを「シミュラークル」という言葉で表しています。このようなテーマパーク的な場所は、「場所」を欠いた、シミュラークルな「風景」にすぎないのです。
 ここにおいて、風景の公共性の問題が生じます。シミュラークルな風景は、その意味を共有する者にしか意味をなしません。風景は見るものを限定できないという特質上、眺めを共有する地域社会の、生活空間から生成されることを必要とするのであります。「ディズニーランダゼーション」された公共施設では施設としての実態とデザインが関係を結べないのであります。

 繰り返し述べてきたように、近代社会はあらゆる対象を主客二元論において捉えようとしてきました。現象学はそのアンチテーゼとして現れ、人間は知覚対象をそのまま客体として理解しているのではなく、そこに現れる意味や価値として理解していることがフッサールによって指摘されています。続くメルロ・ポンティは、視覚は主体の一方的な働きではなく、見られる者からの働きかけでもあることと主張しています。
 このような思弁的な分野のみならず科学的なアプローチで二元論を乗り越える試みも生じてきます。知覚心理学のギブソンは、本来的に意味を持たない物質を捉えて人間が意味や価値を付与するという従来の考え方を批判し、「アフォーダンス」の理論において、環境の側、客体の側に価値が備わっていると主張しました。この考え方は、人間と環境は分離した存在では、一体としての生態として捉えられるという考え方に繋がります。
 二元論の乗り越えを都市計画の計画論で理論化を試みたのがクリストファー・アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」であります。「パタン」とは、特定の空間が経験的に持ちうる資質であり、そこで快適な生活を営むための前提条件・要求です。アレグザンダーはそれを文法(パタン・ランゲージ)によって組み立てることで、環境をデザインすることを試みました。アレグザンダーは、従来のツリー構造を前提とする都市計画における都市においては複雑さが等閑視されており、セミ・ラティス構造を持って都市を捉えることが必要だと述べています。「パタン」は個々人の主観に基づく価値と考えられる一方で、「場所」の経験によって裏付けられています。パタン・ランゲージは人間・環境を一体として捉える解釈として、画期的なものであります。
 この理論は、真鶴町の「美の条例」によって実践されています。ここで評価されているのは、土地や風土から切り離され客体化されることで発見される従来の「風景」ではなく、人格と不可分のものとしてある長めの価値であります。しかし、地域共同体の眺めに美を見出してきたのは従来外部の眼差しでありました。真鶴町の場合、内発的な試み出るがゆえに、住民の関心が薄いという課題があります。

 土地や風土が失われた現代、人間と眺めが直接的に関係を築いていることを指摘する試みも現れます。純粋階段のような、路上観察学会で見出される「物件」には生活への有用性も、歴史的な価値も、風景としての美もありません。ただモノと観察者が純粋な関係を築いているのです。今和次郎の考現学は、生活の断片の徹底的な記録・観察から風俗を明らかにしようとしています。考現学のアプローチするモノは風土や土地の根拠から引き離されたモノであり、そのモノにあらかじめ備わった価値を見出そうとしているとも言えます。
 こうした試みは人間と眺めを生態的に結びついたものとして捉えようとしている一方で、観察する主体の意識は依然残されており、二元論を完全には乗り越えられていません。オギュスタン・ベルクは、不可分であったはずの風土との関係を乗り越えた風景を「実景」という言葉で表しています。社会科学の発達は、精神分析の「無意識」の発見のように、次第に主体をも認識の対象として捉えるようになります。「実景」において、主体はそれ自身も客体としての眺めとして風景になることを求めるようになってゆきます。ここにおいて、風景をまなざすのではなく、風景と一体になりたい、包み込まれたいという欲望が現れてきます。このことは、原寸大で町や家を再現した歴史資料館にも現れていますし、シミュラークルの風景も「実景」の一つであります。
 この「実景」は「場所」の代償であり、消費財に過ぎないと判断することもできますが、ベルク自身は風土を乗り越えた「実景」において、「地球」が次の風土として存在していると述べています。これは大竹伸朗が「日本景」で表現したもので、眺めと自分自身がいかなるものも介在しないで直接に重なって捉えられる状態を指すと考えられます。これは、旧来の日本にあったような、人間と自然が直接に重なって捉えられる美意識とも通底するところがあると考えられます。
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2019年08月12日

近代建築史(鈴木博之編著)

 近代建築史の教科書です。例によって、院試勉強で読みました。西洋近代、日本近代、現代建築の三章構成で、西洋については新古典主義の時代から、日本においては開国から、2000年代に至るまで広くざっくり近代の建築史が抑えられています。内容については一般的なものなので特別取り上げることはありませんが、文章は簡潔でわかりやすく、写真の配置も適切で、以前紹介した同内容の本よりも読みやすかった印象。入門にはオススメです。
 2008年初版の本ですが、2000年代に入るところまでまとめられているのがすごいです。現代の建築の潮流なども建築史からの研究が進んでいるのでしょうか。今なら、2010年代までまとめられたりするのかな。
 院試勉強系の概説書にありがちで味気ない紹介で恐縮ですが、今日はこの程度で失礼します。
posted by みさと at 20:33| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする