2019年02月27日

崇高の美学(桑島秀樹)

 なぜだか、春休みは思想系の本ばかり読んでおります。登山家として、山岳美学を巡ってよく取り上げられる「崇高」の概念を詳しく知りたくて手に取りました。
 この本の著者の桑島秀樹さんは阪大文学部美学科の出身で、現在は広大の総合科学部の教授をされている方。バークや崇高美学を巡る研究で功績を残されているそうです。
「崇高」とは、バークにより一つの美的カテゴリーとして定位され、カントによって厳格に体系化された概念で、苦・恐怖の中に沈潜していくうちに(カントにおいては、自らの「理性」を見出し、)反転的に創出される快の形であります。
 例えば、アルプスの山脈を訪れ、その圧倒的な量感を感じ、押しつぶされそうな、恐怖に打ち震えながらも、そこから感じられる、ある種の快。あるいは、石や岩、さらに現代においては鉄やアルミのような、無機物やそれで作られた人工物を見たときに感じられる、生への拒否感の恐怖、気味悪さの中から感じられる快。

 一番面白かったのが、3章「山と大地の崇高『崇高』 カントの人倫的崇高を迂回する道」における、崇高と「地」の結びつき。筆者はアルプスの山岳風景画などを描いたターナーを分析するラスキンの理論(地質学的視線)を通じて、崇高が「天」ではなく、「地」と深く結びついていおり、さらに日本の登山文化をめぐって、沢登りや藪漕ぎをピークハンティングと対置して「地」に沈潜する「崇高」を求める行為であると述べております。
 一般的に「天」をイメージするアルプスなどについても、ジンメルやラスキン、ターナーは、その著述、作品において大地に注目しているのです。

 私自身、沢登りや藪漕ぎをしておりますので、それらの崇高性は直感的に納得できます。しかし、作中で述べられていた冠松次郎や川崎精雄の感性とは、少し異なるような気もします。彼らは、地に沈潜する際、陶酔的で、自然の生の中に融解していくような美を述べていますが、私は彼らより臆病なのか、とりわけ沢登りをしていると、一歩踏み間違えば、集中力を切らせば死の世界へと転落していくのに恐怖を感じます。そこにあるのは、むしろラスキン=ターナー的な、あるいは、カント的な、苦や死の中に見出す快、「崇高」と言っても良いと思います。
 滝や岩の登攀。岩の割れ目を、凹凸を探り、つかみ、慎重に体を上げていく。あるいは、巻き(突破できない滝などを避ける行為)。どろどろの斜面に手を、足を突っ込み、木の根をつかみ、手足に精神を集中させ、這い上がっていく。
 体の、心の全てで、大地と、そして、自らの理性と、本能と、対話しているように思えます。

 他分野の本で、どうしても前提知識が不足しているため、理解が浅薄にとどまっているのは否定できませんが、「美学」という分野が、哲学の中でも実感を持って理解できる面が強いこともあり、楽しく読むことができました。他分野の、全然違う論理構成を知るのも興味深いし、良い勉強になりました。
posted by みさと at 12:57| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(美学美術史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする