2019年01月22日

人でなしの恋(江戸川乱歩)

 創元推理文庫、江戸川乱歩の短編集です。収録作品は『百面相役者』『一人二役』『疑惑』『接吻』『踊る一寸法師』『覆面の舞踏者』『灰神楽』『モノグラム』『人でなしの恋』『木馬は廻る』です。小学生か中学生の頃に読んだものですが、久しぶりに読みました。
 小学校高学年の頃、2004年放映の特撮ドラマ「ウルトラQ dark fantasy」を父親と一緒にDVDで見てかなり衝撃を受けたのですが、そのうちの一話「ヒトガタ」が、江戸川乱歩『人でなしの恋』が原案だと聞き、書店で購入したのがこの本。少年探偵シリーズにハマってほぼ全作を読破し、それ以外にもポツポツと手を出し始めていた頃でした。


 最も気に入ったのはやはり表題作『人でなしの恋』。陰気で冷たい蔵での、艶美な古人形との密会。
「その花やかな、情欲的な顔が、時代のために幾ぶん色が褪せて、唇のほかは妙に青ざめ、手垢がついたものか、滑らかな肌がヌメヌメと汗ばんで、それゆえに、一そう悩ましく、艶めかしく見えるのでございます」(p210)
 人ならぬ者には、人には決してない、怪しげな魅力が宿ります。とりわけ人形というものは、人に似ているがゆえに、そして、人の寿命を超えてもいつまでも若々しく、しかし、長い年月の間に幾人もの人の愛の降り積もり、微妙な古びかたをするのですから、なおさらです。
 人形が愛する者が自ら流した血潮にまみれ、腕の中で恋敵たる主人公を笑っているという結末の描写には、慄然とするものがあります。乱歩の中でも名作に数えて良い作品だと思います。

『踊る一寸法師』もお気に入りです。サーカスに属する、子どもの体を持った30男。酒宴の席で仲間たちに嬲られる中、復讐を行うというお話。小人症と思われる人物を扱っており、現代ならば人権問題となりそうな主題をしておりますが、サーカスという非日常空間も相まって、作品の怪奇性・猟奇性を際立たせております。サーカスの手品と見せかけて本当に玉乗り女を殺し、踊りながら首に何度も何度も食いつくという結末。筋はシンプルながらも、身の毛のよだつ恐怖と魅力があります。

『疑惑』はフロイトを援用したカラクリを使ったミステリ。以前読んだ時から十年近く。少しばかり精神分析学という学問に触れたこともあり、この作品の持つ意義が自分の中で変わった気がします。そうややこしくないシンプルなものですが、なかなか面白かったです。

 『木馬は廻る』の物悲しいお話も、『モノグラム』の少し心ときめくお話も、『一人二役』の微笑ましいお話も、それぞれよかった。ミステリ色の強いものもあれば、怪奇色の強いものまで多様な作品が収録されています。どちらかといえば地味な小品ばかりですが、乱歩の世界を存分に楽しめる作品集だったと思います。
posted by みさと at 14:56| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(ミステリ系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月18日

痴人の愛(谷崎潤一郎)

 谷崎潤一郎『痴人の愛』を読みました。
 主人公・河合譲治はカフェエの給仕を務めていた少女・ナオミを引き取り、自分の思い通りの女性に育つよう養育するが、ナオミは譲治の管理を超えて奔放に、淫蕩に育ってゆく、というお話。
 よく聞く分析として、この作品における譲治とナオミは、西欧近代に屈服する日本というメタファーになっているというものがあります。谷崎は、日本が二次大戦で敗戦したとき、「日本の男が、巨大な乳房と巨大な尻を持った白人の女に敗れた、という喜ばしい官能的構図」(三島由紀夫の評)で世界を認識していたのではないか、と言われています。そのことを踏まえれば、『痴人の愛』は、西欧への憧憬・女性へのマゾヒズムという谷崎の精神がよく結晶したものだと言えます。
 また、この作品は大正末期の風俗を描いた作品としても秀逸だと思います。譲治は宇都宮の豪農の出でかなりの月謝をもらうサラリーマン。ナオミは東京の比較的貧困層の生まれで、多少水商売的な意味合いを持っていたカフェエの女給。そうした格差を背景に、物語中盤以降は二人の派手な生活を通して、東京の新中間層のハイカラな社交社会が描かれています。こうした舞台背景は、西欧人的な特徴をもち、譲治が西欧人らしく仕立て上げようとしている近代女性たるナオミの特徴をうまく際立たせています。

 終盤に強調されるように、ナオミは、彼女が悪い女であるからゆえにこれほどまで美しく存在します。
「疑いもなくそれは『邪悪の化身』であって、そして同時に、彼女の体と魂とが持つ悉くの美が、最高潮の形に於いて発揚された姿なのです」(新潮文庫・p278)
 譲治がナオミを追い出す際、憎しみ、憎しむ中でこれまでにない妖艶さ、凄まじい美しさを見出すというシーンです。この美学、何か本能的にわかる気がします。美と恐怖の感覚って、どこか似ている。ゾッとする、という言葉を、美しいものにも、恐ろしいものにも使うように。それがなぜなのか今うまく説明できませんが、この感覚の蠱惑は本当によくわかります。

 この物語はナオミに屈服して終わりますが、その結末は破滅的なものではありません。合資会社を作って収入も確保でき、ナオミを占有はできないまでも、その側にいることはできている。恐ろしく、憎しみながらも恋い焦がれ、服従するることに快感を覚えている。物語のの語り口は、自虐的でありながらも、どこか幸せそうな色が滲んでいます。

 世間でこの小説は官能小説の代表格みたいに、揶揄的に扱われることが多いですが、綿密に紡がれて世界観に、くどくなりすぎない、さらっとした、しかし、感情をよく伝える文体。谷崎の銘作に恥じない優れた作品だと思います。
posted by みさと at 14:50| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月14日

桜の文学史(小川和佑)

 小川和佑さんの本です。古代から現代に至るまで、文学作品を紐解きながら、桜の受容の歴史を探るという内容です。
 小川さんは詩人・高校教諭から近代文学の研究者でかつ文芸評論家に転向された方。この文章も、学問書のようでもあり、評論のようでもあります。

 桜というと、何を想像するでしょうか。賑やかなお花見? 可憐な女身の象徴? 梶井のような死の桜? あるいは、武道における滅びの美学? 思えば、私たちは桜に本当に様々なイメージを与えています。この本は、文学作品を古代から、樹種の移り変わりと照らし合わせつつ通史的に読み解くことで、どのようなイメージがいつ頃形成され、移り変わっていったのかを明らかにしています。
 小川氏は、従来桜の受容史が描かれることはあったが、結局軍国主義的なナショナリズム宣揚のイメージとしての桜に落ち着いてしまうことに危惧を抱き、通史を描いて様々な「桜」像を確認することで、それに反論しています。
 「国華」としての桜イメージは、歌舞伎の舞台で生まれた悲壮美が本居宣長によって国粋的なイデオロギー色を持ち、明治以降富国強兵策に取り込まれていった、極めて歴史の浅いものであると小川氏は述べております。

 私はつい先日坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読み、死の桜、狂気の桜に強く魅せられらのですが、この本を読んでいて、もっと様々な表象の中に浸ってみたいと感じました。

 また私は建築史の研究室に所属しており、造園史にも興味があるのですが、その視点でもこの本は面白かったです。造園史は考古学的資料を使うことが多いイメージが強いですが、文学作品から読み解くのもとても面白そう。後期万葉の時代、官人たちはそれまで詠んできた自然を邸内に移し替えたということや、鎌倉を生涯出ることのなかった実朝が、歌を詠むのに吉野山のミニチュアを作って空想に現実感を与えたなどのトピックも興味深いものが多かったです。

 参考文献リストがないのが惜しいくらい、いろいろと知的関心の湧いてくる一冊でした。またこれを元に、いろいろ文学作品や研究書を読んでゆきたいと思います。
posted by みさと at 15:56| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(言語学/文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月10日

桜の森の満開の下・白痴(坂口安吾)

 岩波文庫、坂口安吾さんの短編集です。収録作品は『風博士』『傲慢な目』『姦淫に寄す』『不可解な失恋に就いて』『南風譜』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』『桜の森の満開の下』『青鬼の褌を洗う女』『アンゴウ』『夜長姫と耳男』です。

 一年ほど前、梶井基次郎『桜の樹の下には』に強く感銘を受け、もう一つ、桜を冠する近代文学で有名な安吾の本作も読んでみたい、と思い、本屋で手に取った一冊です。
 ほとんどの作品に官能的なモティーフが出てくるのが特徴的。谷崎や鏡花の影響を受けていると聞いて、なるほどと思う一方、文章の雰囲気はかなり違います。安吾の文章は、谷崎のさらっとしたものとも、鏡花の幽玄なものとも違う、どこか憂鬱な、退廃的な、すさんだ印象を受けます。
 安吾は、谷崎や鏡花よりも、肉体や肉欲というものを、精神との対比の上で、強く意識しており、それが彼に取っての大きな主題であると感じました。『姦淫に寄す』『白痴』『女体』『恋をしに行く』『続戦争と一人の女』あたり、それらが特によく現れていると思います。

 多くの短編が収録されていますが、その中でも気に入ったものをいくつか。
 『白痴』は安吾の中で最も有名な作品かもしれません。空襲に襲われる中、白痴の女とともに過ごす男の物語。理性を持たず、肉欲などの本能のみの備わった女。戦争・空襲という、人間の理性が撹乱される極限の状態の中で、「白痴」は特徴的な意味を持ちます。猛火を逃れる終盤、白痴の女は数少ない意思を示します。男はそれに人間を感じ、幸福を覚えます。しかし、最終的に男は女を豚にたとえ、彼女の尻を食いながら肉体の行為に耽るという結末の退廃的な狂おしさはなんとも言えません。

『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』も戦争を主題とした作品。皮肉な男と淫奔な女を題材に、戦時の精神世界をよく描いています。前者の最後、戦争を「オモチャじゃないか」と言い捨て、「もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争に絡みついてやればよかったな」(p184)と女に喩える描写が印象的です。

『桜の森の満開の下』は、梶井の『桜の樹の下には』と筋は全く異なりますが、グロテスクな美しさを描いているという点で共通しています。梶井の記事でも書いたかもしれませんが、生と死は裏返しのものであり、相互に連想させるものでもあります。この作品は、さらに冷たい寂しさと慄然とする狂気をも感じさせます。桜を見ていると、気が狂いそうになる、という感覚も、少し、わかる気がします。山の中を駆けていて、空が一面の桜で埋め尽くされている光景が現れれば、なんと恐ろしいことでしょう。現在では花見は庶民にまで広がっており、桜の植樹も多く、満開の桜もいたるところに現れて、桜は人に近しいものになりすぎてしまいました。しかし、そうした意識がなければ、桜の森の満開の下は、妖しく美しく、不気味な、異空間であります。
 いや、花見の光景を思い浮かべれば、現代においても、人々は桜に集い、狂っていると言えるかもしれない。

『アンゴウ』はこの作品群の中でも異色を放っています。内容・構成ともにさっぱりと美しい。さわやかとまで言って良いかもしれません。

『夜長姫と耳男』は構図としては『桜の森の満開の下』と良く似ています。心理は違いますが、残虐で猟奇的な女の歓心を買うために男が尽くすという構成。可憐なものと残虐な行為が結びつくというのは、しっくりきますし、魅力的ですが、それはどうしてだろう。幼いものは分別がない、とか、ギャップが良い、だなんて単純な話では片付けたくはありません。ここにも、ぞっとする、冷たい、澄み渡った美しさを感じます。 
posted by みさと at 15:10| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする