2017年09月24日

春昼・春昼後刻

泉鏡花さんの連作です。

あらすじ
 眠気を誘うような暖かな春の昼下がり、散策子は集落を歩いた後、ふと山寺に立ち寄る。彼は住職に、最近集落であった不可思議な恋の物語を聞くが……。




 春昼。ぽかぽかと暖かな陽気。とろとろと眠気を誘うようなのどかさを感じさせる舞台設定でありますが、鏡花特有の妖美さ、不気味さが感じられる作品です。
 白い半透明の幕を透かして見ているかのような、そんな気持ちにさせます。砂をつかむ、という描写が終盤にありましたが、それがこの物語を象徴しているようで。
 物語自体がうとうととゆったりとした夢のようでありましたが、最後急展開で終わりまうが、その緩急が素晴らしいところ。

――渚の砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。
posted by みさと at 17:03| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(近代文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

柏原市と民俗宗教

 『生駒の神々』という本を紹介しました。私の住む柏原市は生駒山系の南端に位置し、延喜式内社が多くて雁多尾畑の松谷光徳寺のような大寺もあります。古代までさかのぼると、河内国分寺、国分尼寺、智識寺などの大規模な寺院が無数に存在していました。ところが、本書でとりあげられていたような民俗宗教的なものは恩智(八尾市)、信貴山(平群町)が南端で、柏原市域には殆ど存在しません。鐸比古神社(奥宮)や若倭姫神社は磐座的要素は強いですが、信仰圏は基本的に集落内におさまる鎮守の神であります。それらしきものといえば、葛城二十八宿満願の地である亀の瀬・龍王社や青谷にある弁財天磐座が修験的色合いを持っているのがあげられるくらいでしょう。朝鮮寺はおそらく皆無で、新宗教系のものはあることはありますが、集積しているとは言い難いです。

 ふと、市域は国分寺など官寺的な寺が多かったことから、市域は「公的」な領域となってしまい、民俗宗教が発達しなかったのではないか、と思いました。古代の製鉄も、当時豪族が行っていたとしても、その重要さゆえに朝廷と深く結びつきをもっていたと考えられます。地域の大寺社と言って挙げられる光徳寺(雁多尾畑)、龍田大社(元宮:雁多尾畑、本宮:三郷町立野)も、ともに皇室と結びつきの強い寺社であります。
東大阪で民俗宗教が発達したのは早い段階で鉄道が発達して参拝が容易になったから、という話もありましたがそれは柏原市にも同じことが言えます。石切さんなど機能神の存在が大きいとは言いますが、柏原の製鉄神群もややニッチではあり、規模も小さいですが機能神(産業神)となりえたでしょう。八尾市山畑、服部川など、民俗的色彩を帯びた寺社が中小のものだけで集積している地区もあるので、規模の問題は絶対的なものではないでしょう。
やはり、古に醸成された「公的領域」の間隔が近世・近代まで続いていた、というのが少しなりとも関係しているのではないでしょうか。東大阪などの事情は詳しくないので、あまり積極的な意見は言えませんが……。

 とは言え、金山彦・媛社(青谷・雁多尾畑)にあるお伊勢さんの遥拝所(比較的新しいもの)は独特だ、と柏原市を訪れた民俗学の某先生は言わはりましたし、平成21年に再興した真新しい真言宗河内国分寺(東条)があったり、先述の磐座や修験系の信仰地があったり、信貴山がすぐそばであったり…。なんだかんだで、民俗宗教の気風はうすくはありますが、柏原のほうまで届いているような気がします。

 柏原、三郷、平群、八尾、東大阪、生駒、大東、四条畷、交野…。また生駒山地の宗教を詳しく調べ、地域ごとの特徴をもっと深くまとめてみたいです。
posted by みさと at 16:31| 奈良 ☀| Comment(0) | 郷土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生駒の神々 現代都市の民俗宗教

生駒の神々 現代都市の民俗宗教

 宗教社会学の会編の本です。大阪と奈良の境に位置する生駒山地は、宝山寺、石切神社、信貴山寺などの大きい寺社とともに修験系、朝鮮系などを含めた中小の寺社がたくさんあります。所謂檀家や氏子をもつとは限らず、ある機能に特化したご利益(石切さんが「でんぼの神さん」であるように)を持ち、都市民衆が現世利益を祈願する寺社が多いという特徴があります。また既成の宗派の枠に収まらず、独特な民俗宗教的特色を持っているというのも注目すべきところ。
 大阪という大都市が近くも急峻な斜面、豊富な滝場を持つ生駒は聖と俗の境界性を持つ場所であり、民俗信仰の集積地となっています。宗教というものは合理性を重んじる近代都市と対立するもののように思われますが、生駒の神々は近代都市の存在ゆえに今も存続し続けているもののようにも思えます。それは都市が合理性ゆえに人間を疎外していることへのアンチテーゼというのも一つですが、いくら都市が合理性を旨としていても人間という不確実性に富んだものが集積する以上、都市もきわめて偶然性の強い生物的存在であるということも一つだと思います。その偶然は近代的な介入ではいかんともできないことも多く、神頼みという行為がいまだに力を持っているのでしょう。
 私の実家からはきわめて近いところに位置していますが、石切さんも生駒の聖天さんも意外と行ったことがない場所(幼いころに、というのはあるかもしれませんが…)。石切の辻占いや生駒新地の話はかねてから聞いており、この本で知ったことも踏まえて近く訪問してみたいな、と思っています。
 信貴山の大宇宙教断食道場は、ふらふらしているときにたまたま見つけて「なんやこれ」と思った記憶があります。そのあたりのこともいろいろ知れて面白かったです。
 かなりディープな生駒の信仰。これまで、柏原市、三郷町、平群町の領域にとどまってそれ以外の生駒山地について全然知らなかったことに気づかされました。生駒、東大阪、八尾ももっと深く探求してみたいと思います。

評価:B
posted by みさと at 15:56| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(社会学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする