2019年07月12日

西村幸夫 都市論ノート(西村幸夫)

 西村さんは東大の都市工学科を出て都市計画を専門とされている方で、この本は景観・まちづくり・都市デザインなどに関する小論文を多数まとめたものであります。例によって院試勉強の一環で読みました。
 トピックは多岐に渡りますが、印象に残ったものをいくつか。

 近代都市計画は、他の多くの科学技術と同じように、西欧の先進国で生まれ育ちました。土地利用計画やそれを元にした地区詳細計画を軸としたプランニング・コントロールというシステムも、やはり西欧先進国の発達した社会・統治システムがあってこそのものであります。行政機関が迅速かつ公正な働きをしなければならないのはもちろん、違反を罰する警察権力が機能すること、地図や統計情報などの基本的情報が整っていること、地区の変化が当局が把握できる程度に漸進的であること、さらには民主的コントロールの作用する近代市民が形成されていることなど、先進国に暮らしていては当然のあまり普段意識しないようなことが、都市計画を実施する上では必要なのです。
 都市間のネットワークの在り方やその都市の社会構成、空間構造など、風土や歴史による差異があるため、汎世界的な都市計画はありえないということは自明だと感じてはいましたが、こうした発達段階による政治学的差異があるということは、普段日本国内ばかりをフィールドにしていることもあって考えが及ばず、はっとさせられました。

 後半ではそれなりに分量をとって歴史的環境保全制度の歴史をまとめられているところがあり、院試勉強的にはそこが大変参考になりました。
 産業革命や地域開発の反動のように、1900年代前後より地域固有の古社寺や史跡、名勝を保存せんとする愛郷的な団体の設立が相次ぎます。日光の保晃会や京都保勝会が有名なものであります。会の活動としては、古文書の買取や保存対象の維持管理のための義援金の拠出が目的とされていました。こうした愛郷運動は、後には国粋主義と結びついて行くことにもなります。
 この動きに呼応するように、植物学者・三好学らの建議によって1911年史蹟名勝天然記念物保存教会が設立されます。1919年には史跡名勝天然記念物保存法が成立し、こうした動きが法制度として確立します。この法では、人工物と自然物を同列に保護対象にしているところに特徴があり、また、学術的な評価というよりも、風致を守ることで「国体を維持し国民性を涵養する」ナショナリズム的な色彩の強いものでもありました。
 今卒論で、ある名所の保勝活動を調査しているのですが、このあたりの歴史は、研究の前提知識としても役に立ちそうに思います。
posted by みさと at 11:27| 奈良 🌁| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月07日

シャモとレンコン畑(田中幸太郎)

 珍しく写真集の紹介を。田中幸太郎さんは、花火を被写体に体に密着させたカメラを動かして撮った抽象的なアクションペインティングで有名な方です。朝日新聞の出版局でルポルタージュ写真を撮っていたこともあるらしいのですが、そうした中で河内地方に魅せられて河内の民衆の写真を撮りあつめたのが、この写真集。河内に惹かれるあまり大阪市内から枚方に移住したそうです。

 現在河内地方は大阪の後背地として工業地・住宅地として大いに都市化が進んでおりますが、1960年代前半当時はまだまだ農村風情を強く残しており、全然違う風景に驚きを感じます。
 柏原の太平寺・大県・安堂あたりの写真をみると、それぞれの集落がぶどうの海に浮かんでいるようで、当時のぶどう生産の盛んさを思います。現在新興住宅のたて並んでいるところはもちろん、集落の道や納屋の上にまでぶどう棚がつくられています。
 記録写真と面白いところといえば、「大阪のチベット」という題で柏原市の堅上小学校本堂分校がうつされているところ。昔ながらの寺子屋のように、生安寺の境内で数人の児童を相手に授業が行わている様子が撮られています。現代でも多集落から隔絶したところに20戸ほどが暮らす山間の小集落で、もう分校は閉校し、村内に児童もおらず、こうした様子が記録されているのをとても興味深く感じます。

 表題ともなっている「シャモ」ーー軍鶏は、一意には当時八尾のあたりで闘鶏に熱中する人々の写真を撮っていたところから来ているのでしょうが、ある意味これが河内人の気性を表してもいる気がします。私自身河内柏原の旧農村で生まれ育ちましたが、イメージで思い浮かべるような「河内弁」を聞いたこともありませんし、周りにも荒くたい方が多いと言った印象はありません。河内内の地域差や社会階層差のような違いはあるかもしれませんが、当時の河内風情が失われて久しいこと、河内に長く暮らしながらそれに触れることができないことを少し寂しく思います。

 私はあまり写真芸術への造詣が深くないのですが、ここまで述べてきたような記録的、社会的な意味合いを抜いても、心惹かれる写真が多かったです。
 こうした写真は、民衆写真、民俗写真というのでしょうか。あまり撮影者に意識がゆくことがなく、普通の暮らしが切り取られている感じがします。
 私たちは、生活して行く中で、空間に、世界に意味を刻み続けています。普段はそうしたことに気づくことはありませんが、このように、写真で時間を寸断することを通して、その様が明確に可視化されるような気がします。活気ある生のリズムが写真の一枚一枚に刻まれているようで、素敵です。
 現代では三次産業化や情報化が進み、何をするにも多くの媒体が我々と世界の間に介在するような感じがして、世界を直接経験することができなくなってきているような気がします(もちろん、その媒体も世界の一部には違いないのですが)。1960年代当時の、農業や手工業の時代の営みは今よりも生きている感じがして、なんともゆかしく思います。
posted by みさと at 13:01| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月06日

グレート・ギャツビー(S・フィッツジェラルド)

 村上春樹訳で読みました。アメリカ文学に触れることは普段あまりないのですが、友人に声をかけられ、手に取ることに。

 華やかなパーティを毎週開く謎めいた隣人・ギャツビー。そこには煌びやかな男女が集まり、宴を楽しんでいた。ある日・ニックもパーティに招かれるが、そこに集う人々はギャツビーのことをろくに知らず、悪意ある噂ばかりを口にしていた。

 華やかな中に哀しい色の浮かび上がってくる物語であります。ギャツビーが大邸宅を買い、盛大なパーティを度々開くのは、過去に恋愛関係を持っていたデイジーと再び結ばれんとするため。
「ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。あしたはもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れたあさにーー
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間無く過去へと押し流されながらも」(p326)
 華麗なる過去を未来に再び手にせんとしても、その試みを果たすことはとても難しい。東京五輪、大阪万博、現代日本でも、高度経済成長やバブルを懐かしみ、再現しようとする風潮がかんじられます。こうした空気感と、この物語がどうにもかぶるようで、少し座りの悪い心持ちを感じます。
 この物語では結局過去を手にすることはできず、哀しい結末を迎えてしまいます。悲惨な、悪意の介入した取り違えからギャツビーは死を迎える。パーティにはあれだけ人が集っていたのに、葬式に参列したのは彼の父親と使用人、主人公・ニック、「フクロウ眼鏡の男」だけ。無主となった屋敷には野次馬が集い、子供に卑猥な落書きがされ、荒れ果ててゆきます。。ギャッツビーの父親が死んだ息子の栄華を悲しくも誇らしげな態度で受け入れるのが、なんとも哀れで痛ましい。
 川を挟んでデイジーに向かって暮らし、プールで最期を迎えるというように水が彼の人生において印象的でありますが、これも時間の比喩のようにも読み取れます。隔てるもの、流れ行くものとしての川、淀み溜まるものとしてのプール。
 デイジーの魅力的な声は「金」と重ねられています。ギャツビーの生涯を通して、「アメリカン・ドリーム」のような栄華を儚み、悼むのが主題と読むのは、少し日本人的感覚にすぎるでしょうか。
 美しく、悲しく、良い物語でした。
posted by みさと at 09:43| 奈良 ☔| Comment(0) | 読書(その他文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月02日

都市と緑地(石川幹子)

 院試勉強、第四弾。今回読んだ本は緑地、公園の歴史についての本です。欧州、米国、日本それぞれの公園史の概観を通して、今後の都市マネジメントの方向性について提言をするといった構成。扱っている内容はかなり広範に渡りますが、かなりしっかりした内容で、中々読み応えがありました。
 筆者の出自は農学部の造園系ですが、研究内容は都市計画にかなり近い方で、本書も公園・緑地計画の都市計画史上の意味づけを確認しつつ進んでいきます。

 そもそも、「緑地」「公園」と言っても、とりあえず緑のあるところ、とか、子供が遊んでいるところ、とか、植栽の多い広場、とか、一般にはその程度の漠然としたイメージであります。
 この「緑地」は公的に定義されており、大きく「施設緑地」と「地域性緑地」にわかれます。前者はいわゆる都市公園や児童遊園、あるいは寺社境内地などのような、公的機関や民間業者によって一般市民に解放されている空地のことを指します。後者は風致地区や生産緑地、保安林区域、自然公園などをゾーニング指定すること、すなわちゾーニングによって、既存の緑(森林、農地など)を守っているものであります。

 産業革命期、欧州各地では都市環境・公衆衛生の悪化が顕著になり、ペストが流行し、多くの死者が出ました。そこで都市改造が社会的に要請され、その一環として、都市の肺たる「緑地」が注目されました。ここにおいて、王侯貴族の庭園や狩猟地の解放、顧問の保全、城壁跡地のプールヴァール(広幅員道路)への転換が行われてゆきます。これこそ、「近代公園」の誕生であります。
 19世紀中葉以降、米国においても急速に工業化、都市化が進展する中で、都市の秩序をを担保すべく、「パークシステム」と呼ばれる公園緑地と広幅員街路の系統が整備されます。これは、従来別のものとして考えられていた街路計画と緑地を結びつけ、緑を重視した都市基盤を整備した画期的なものでありました。
 さらには、19世紀末に郊外に都市と農村を止揚した自律的な理想都市を作ることを目指したエベネザー・ハワードの「田園都市思想」、さらにはこれに基づいて都市を越える広域計画として「地域計画」が緑地保全の第三の潮流として現れます。

 緑地は戦後の日本においては、経済性のないものとしてあまり省みられることのないものでありますが、火災の延焼防止、気象の緩和、コミュニティの場のなど、多面的な機能を持つ重要な都市インフラであります。
 19世紀の米国では、緑地を作ることで周辺の地価があがり、受益者負担を課すことで緑地の設置・管理費用を賄えたとあります。衛生状態の良い現代日本では公衆衛生や緑地の大切さへの認識が下がり、地価への影響は当時の米国ほど期待できず、このような形での資金調達は難しいかもしれません。
 しかし、人口の減少していく21世紀において、現在の建蔽地を非建蔽地に転換していくこと、緑地(農地を含む)を新しく創出していくことはこれからの都市計画における最重要テーマの一つではないかと思います。維持に費用のかからない緑地をどこに、どのように作っていくのか、ということをこれから先考えて行かねばなりません。この時、都市計画は都市計画、農政は農政と別々に考えていてはなりません。現在縦割りに分かれている都市計画と農村計画、さらには森林計画など国土空間を扱う多様な行政分野(さらにはそれの基礎となる哲学、地理学、社会学、農学、建築学、行政学などの諸学問)が手を携えることが必要があると考えます。
posted by みさと at 18:54| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(森林/造園,農学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月21日

ムーミン谷の彗星(トーベ・ヤンソン)

 フィンランドの児童文学作家・ヤンソンによるムーミン・シリーズの二番目の作品。第一作品『小さなトロールと大きな洪水』によって住処を追われ、ムーミン谷に住み着くことになったムーミン一家ですが、ある日ジャコウネズミがやってきて、「ムーミン谷」に彗星が近づいてきて、地球にぶつかることを予言し、宇宙と星を見に天文台を目指すムーミンの旅が始まります。
 この小説の魅力は、何よりその舞台と登場人物からなる世界観にあります。
 子どもっぽいわがままを言うけど憎めないスニフ、学者気質でどこかかたいところのあるスノーク、冷静なさすらいの旅人・スナフキン、切手や虫のコレクションに夢中になるへムル族、「どうしても思ったところへ行きつけなくて、いつもどこかを憧れている」謎めいたニョロニョロ、、、  それぞれの言動はかなりわがままだったりむちゃくちゃで、それに誘導される物語の展開もナンセンスなところ(そもそも彗星がくるから天文台に向かうというところから…)が多いですが、それがとても心踊り、楽しい感じがします。
 登場人物たちの種族は様々でありますが、皆仲良く?関係を築いています。それぞれの種族の設定が、「世界の動物図鑑」だとか「おばけ図鑑」だとかにハマった子供心をくすぐって、魅力的であります。トロールというと「三びきのやぎのガラガラドン」に出てくるような、おどろおどろしい怪物をイメージしますが、この作品のムーミントロールは、カバのような温厚な見た目。スノークはムーミントロールにそっくりですが、体の色が変わる別の種族。人間に見えるスナフキンも、実はムムリクという種族。ニョロニョロのつかめない、たくさんいるのにどこか孤独な感じも素敵です。

「ムーミン谷」という舞台もナンセンスで、けれど、子供心をくすぐります。筏で川を降って行ったらいつの間にか山に入っていく。滝から落ちて危機一髪のところで、地面の割れ目から救い出される。。地形を想像すると、一体どうなっているのか、と感じますが、作品の不思議な世界観を作るのに良い働きをしています。講談社の新装版で読んだのですが、海底を竹馬で歩いているシーンを描いた表紙も素敵な雰囲気。
 原作を読んだのは初めてでしたし、アニメを見た記憶も遥か彼方で、新鮮な気分で読み始めたのですが、こんなに魅力的な世界観なら、人気シリーズになるのもさもありなん、と感じます。良い作品でした。
posted by みさと at 11:42| 奈良 | Comment(0) | 読書(児童文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月20日

【第二版】地域共生の都市計画(三村浩史)

 院試勉強シリーズ。昨年授業の教科書になっていたのに結局使わなかったものなのですが、折角なのでこの機会に読みました。三村さんは京大建築系の都市計画学者で、西山夘三の門下です。
 内容としましては、都市計画史を踏まえた上で、マスタープラン、土地利用計画、緑地、交通、景観基本計画といった都市のマクロな視点のを紹介し、地区計画や建築規制のミクロな話題に移る、というもの。広く浅く都市計画全体を抑えていますが、計画・制度の基礎的紹介が中心の印象。独自の観点があるというよりは、普遍的な、教科書的な内容であります。図版が多く、初学者にはわかりやすいとは思いますが、多少都市計画の勉強をしたことがあれば新しく得るものは少ないかもしれません。復習にはなったかな。
 参考図書が充実しており、各分野・項目でおすすめの書籍もわかりやすいので、ここから先の勉強の参考にもなりそうです。計画史についてはもう少し勉強したいと感じます。
 院試勉強関係は教科書的な書籍が多く、感想も単調で無機質になってしまいがちですね。。
posted by みさと at 15:20| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月15日

雪国(川端康成)

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という冒頭があまりにも有名な作品。隧道の真っ暗な断絶から、広がる暗く白い夜の雪景色が広がる様が頭に浮かび、物語の始まりとして実に視覚的、演劇的で、素敵です。
 川端康成の作品は以前に『古都』を読んだのみでありますが、本作はまた少し違う印象を受けました。『古都』は人物を描くという以上に、人物を通して美しい古都の四季を描いていたような印象であったのですが、本作はその逆な感じ。美しい雪国の風景が背景になっており、その舞台背景は作品にとって大きな役割を演じているのには違いないのですが、本作品では「雪国」や「温泉町」はアノニマスなそれであり、駒子ーーと、葉子ーーを美しく浮き出すための背景である印象を受けました。
 感覚的、官能的な描写が作品全体を通じて見られるのですが、決して淫靡な感じはなく、雪国の透き通った、少し哀しいひんやりとした、暗い美しさの中にそうした感覚的な描写と人物の激しい情動が取り込まれて、何とも綺麗な作品であります。

「美しい血の蛭の輪のように滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(中略)白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を向いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上がっていて、なにより清潔であった」(岩波新書、p76)
 上の描写がいみじく心に残っております。蛭という、一般的に嫌悪の対象となるような吸血環形動物を、このような、肉感的で、しかし、澄んで美しい記述に取り込んでいるのが良いです。

 駒子に焦点の当たることが多いですが、静かで激しい駒子の側に葉子が影のようにちらちら儚く悲しく現れるのも印象的。闇夜にしんと冷えわたる、夜の雪のような、美しい物語であります。
posted by みさと at 20:13| 奈良 ☔| Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月09日

図説 建築の歴史 西洋・日本・近代(西田正嗣/矢ヶ崎善太郎編)

 院試勉強第二弾。建築史を一通りおさえるのに良いよ、と言われて手に取りました。執筆者は京都工芸繊維大学系の先生方。
 私は西洋、日本の建築史ーーほとんど宗教建築ばかりですがーーは授業で一応習ったことがあったのですが、近代が全く知らない状態でした。内容は一般的なものでそう特筆すべきところはありませんが、何よりも図版を豊富に使ってわかりやすく書かれているので、基礎的な流れを抑えるのにはちょうどよかったと思います。日本、西洋については授業ノートを見直して、近代については、もう一冊くらい本読んでおきたいといった感じです。
 近代建築史に触れてみると、哲学の思想史的な勉強をしていたら、もっと面白いんだろうなぁ、とも感じます。「デコンストラクション」建築というものに初めて触れましたが、デリダに始まる脱構築思想についてろくに知識がないのがもどかしい。
posted by みさと at 19:27| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月07日

日本人の景観認識と景観政策(土岐寛)

 早くも6月。こないだ春分を迎えたばかりだと思ったのに、もう夏至が間近に近づいています。9月に大学院の入試を受験予定なのですが、そろそろそれを見据えて関連する本を読んで行こうと思い、先輩に勧められた本を手にとってみました。

 土岐さん自身は法学畑で地域自治や都市政策を専攻されている方ですが、「景観」問題は都市計画学、建築学、都市社会学、景観工学、地理学など文理問わず幅広い分野の関わる問題であります。
 この本の構成は、日本の貧困な都市景観を背景に、日本における景観研究/都市美運動の軌跡を分野横断的に辿り、日本人の風景観や都市史/景観史を確認した上で、「景観に関する意識調査」を参照したり、各地の景観条例や景観訴訟をたずねながら良い都市のあり方を追求するというものになっております。
 かなり多様なトピックに渡りますが、この本に通底する筆者の問題意識としては、日本は欧米諸国と比べ、私的所有権が強いことや伝統的な建築・都市空間のあり方の歴史などの経緯から、私的空間の造形意識は高いが、公共空間への意識が低く、街並みが乱雑醜悪なものになってしまっているということがあげられます。こうした言説は都市論の世界ではかなり一般的で、そろそろ慣れてきたし納得はしていますが、私自身初めて聞いたときは、日本人は集団意識、同調圧力が強いというイメージがあったため、少し驚いた記憶があります。

 都市史/景観史については知りたい内容が網羅されていたわけではなかったのが残念でしたが、日本の都市景観論の研究史がざっとまとめてあったのが参考になりました。また今後もっと各論に触れた本を読んで勉強していきたいと思います。

 ぼうっとしていたら院試三ヶ月前。まだ対して何も勉強していないので、いい加減積極的に勉強していかないとなぁと感じます。頑張らないと。
posted by みさと at 14:34| 奈良 ☔| Comment(0) | 読書(政治/経済,社会科学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月28日

武蔵野(国木田独歩)

 岩波文庫、収録作品は『武蔵野』『郊外』『わかれ』『置土産』『源叔父』『星』『たき火』『おとづれ』『詩想』『忘れえぬ人々』『まぼろし』『鹿狩』『河霧』『小春』『遺言』『初孫』『初恋』『糸くず』です。
 『武蔵野』は日本における近代的な風景の発見と結びつけられてよく取り上げられる作品です。もともと日本では歌枕などの「名所」、強く規範化されたものを美とする風景観がありました。吉野ならば桜、竜田ならば紅葉、といった風に、連想される景物も定型化されたものが多かったようです。しかし、近代になって欧米の影響を受け、風景を科学的に評価したりアノニマスな風景を評価したりするようになるのですが、本編はその最たるものであると評価されています。本編が取り上げられる「武蔵野」は近世以前、武蔵野は萱原をもって美とされていたようですが、独歩はこれまで評価されることのなかった楢林、落葉樹林の美をツルゲーネフをひきながら見出しております。逍遥の中地理学的な感性が現れているのもとても近代的です。
 他ワーズワースの影響を強く受けているようで、後半に収録されている掌編『小春』においてそれははっきりと明示されております。
 『武蔵野』は「郊外」の発見であるという言説もあります。

「田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つ其処らの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波が此処で落合って、緩かにうずを巻いているようにも思われる」(p31)

と独歩は郊外の風景を評価しています。ここで言う「郊外」は、ニュータウン、住宅地、ロードサイドなどのキイワードで連想される現代日本の郊外とは異なり、多分に農村的、田園的景観の残ったものであります。独歩の書いた林や畑、人家の混ざった景観は現在ほとんどが宅地化されて残っております。(航空写真で見ていると多摩川沿いなどにその断片は見られるようですが、風景としてはもう失われたものでしょう)。郊外といっても当時の認識と現在の認識は違いますし、地理的な差異もあります。自明のことではありますが、「郊外」論を考えるとき、「郊外」と一括りにせず、時空間の差異を考慮した上で考えないといけないと、自戒を込めて。

 表題の『武蔵野』が有名にすぎますが、それ以外の作品にも中々素敵なものがたくさんあったので、少しばかり紹介を。
 『源叔父』は妻子を亡くした船渡し・源叔父と孤児乞食の紀州の物語。波のような物語で、感情の上がり下がりがなんとも哀しさを誘います。独歩は『武蔵野』の叙景小説のイメージが強かったのですが、このような短編もとても魅力的です。
 『星』『たき火』は童話のような掌編で、また雰囲気が変わります。『星』は詩人の休むもとで遊ぶ二人の星の話で、可愛らしく心くすぐり、好きです。文語体ながらも言葉の選択が優しく、良い雰囲気。
 『忘れえぬ人々』も印象的です。袖触れ交わすだけの人の中にも、やけに心に残る人っていますよね。この小説はそうした人と会ったとき、また思い出したときの気持ちをよく表現しています。この気持ちを短文的に言葉にするのはとても難しいですが、独歩は小説、物語という形式で的確に表していて、「ああ、これだ」と心動かされました。
posted by みさと at 12:01| 奈良 ☔| Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする