2020年01月07日

江戸の紀行文ー泰平の世の旅人たち(板坂耀子)

卒論で紀行文の分析をしたのを機に借りて読みました。板坂さんは国文学畑の近世紀行研究の大家の方。
 本書では一章ごとに基本的に一つの紀行・作家を取り上げながら江戸時代の紀行の展開を追っていくという内容。中世までは旅というものは赴任などで止むを得ず行われるもので暗い影がかかり、紀行文は他の文学のように主人公(著者)の心情を追体験するものとして詠まれていました。江戸時代になると、世情は安定し旅は娯楽となり、紀行文もただ作者の心情を追体験するものというだけではなく、旅の疑似体験、旅行の資料など求められるものが多様化していきます。特に貝原益軒は実際の旅に役立つ実用性を重視し、叙情ではなく地誌的記述を重視した新しい紀行文の基礎を築き、以降の紀行文に強い影響を与えます。こうした紀行は小津久足によって大成され、近代にも引き継がれていきます。
 私は地誌的な研究から紀行文の分析をしましたが、やはり歴史的・国文学的な知識の不足が気になります。本書も紀行文というものの性格を知る上の基礎知識となりました。卒論は時間がないので現時点での知識で書きますが、もっと勉強しなければいけないことばかりだと強く感じます。
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2019年12月06日

種田山頭火の死生 ほろほろほろびゆく(渡辺利夫)

 「ほろほろほろびゆく」という副題に惹かれて古書店で購入。伝記小説仕立てで、種田山頭火の一生を追います。
 大地主の種田家に産まれながら、母の自死、父の放蕩などで没落し、酒乱・漂泊の人となる山頭火。彼の俳句は小学生の頃に初めて触れ、その悲哀、その退廃、その寂寥に不思議な衝撃を受けてずっと心引かれてきましたが、彼の一生を触れたのは初めてで、これまで読んできた俳句にもさらなる奥行きを感じるようになりました。

 渡辺さんは現代アジア経済論の研究者で文学畑の方ではなく、小説じたてということもあって山頭火研究の厳密性は得られませんが、山頭火鑑賞の手引きとして十分に楽しめます。
 芭蕉もそうですが、最近ことに俳句に惹かれる。卒論で忙しい中ですが、俳句関係の本をもっと読みたいなぁ。
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2019年11月29日

法隆寺への精神史(井上章一)

 卒論の参考に、と先生にお勧めされて貸していただいた本。法隆寺のエンタシスのギリシャ伝来説や伽藍配置の日本起源説を巡った学説史を参照しながら、19-20世紀に至る時代精神を読み解いて行くといった内容です。
 法隆寺のエンタシスはシルクロードを通って、ギリシャ神殿の様式から影響を受けている、というのは学校で習ったのか、私も昔から信じていた話ですが、現在決して有力な学説ではありません。
 学説の変遷も、やはり時代思想の影響を強く受けます。鹿鳴館的な西洋追従/「脱亜論」的思想や、それに続く国粋主義の高揚、モダニズムの流入などに法隆寺を巡る議論も影響を受けてきたことが論じられています。
 法隆寺という建築そのものではなく、それを巡る人々の思想や社会の状況にスポットをあてたところが独創的な論。東洋美術史を専攻している友人と話していた時にも感じたのですが、私は物そのものを巡る建築史・美術史のメインストリームではなく、文化史的なところに興味があるのだなぁ、と思います。とても興味深かったし、参考になりました。

 井上章一さんのご専門は建築史・意匠論ですが、『京都ぎらい』がヒットしたように、文化史・風俗史的なところに関心の強い方です。一般向けの書籍を多く出されており、著作リストを見てもどこかで見た記憶のある本がずらりと並んでいますが、本書も軽妙な語り口で、読み物として面白い。他の著作も、また読んでみたいです。

 そういえば、少し前にボックスの本棚に『法隆寺の精神史』『日本空間の誕生 コスモロジー・風景・他界観(阿部一)』『伊勢神宮(井上章一)』と並べていた時期があって、どれもちゃんとした学者さんの書いたしっかりした本なのですが、ちょっとオカルティックな印象になってしまってたり。
posted by みさと at 21:18| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月25日

日本空間の誕生(阿部一)

 阿部さんはイーフー・トゥアンの翻訳者として知られ、日本の現象学的地理学の研究者として有名な方です。
 この本ではコスモロジー・風景・他界観をキーワードにして、日本における視覚世界の仕組みを解き明かしています。「日本空間」と題にありますが、それを時空間問わず単一のものとしてみなすことはなく、歴史に沿って、日本の地理的空間もある程度意識しながら理論を展開しているところが地理学者らしいところ。
 阿部さんは元々自然地理学の畑出身らしいですが、現象学的なところを基礎とし、歴史・考古・民俗・文学・文明論・精神分析などかなり広い議論を参照しておられます。わたしは民俗学や思想史的なところの勉強をあまりしてこなかったため、少し議論の展開の速さというか、ジャンプの大きさみたいなものに戸惑いを感じるところがありましたが、どれも面白いものでありました。天や海という宇宙水に浮かぶ「シマ」のコスモロジーの話や、海や山が死と再生をもたらす他界であるという話は壮大ですが納得できるところも多く興味深かったです。

 視覚世界について、阿部さんは「環境」「見かた」「表現」の三者が相互に影響しあって成り立っているという構図を図示しています。現象学的地理学系の議論では、おそらくよく見られる空間理解のあり方であると思うのですが、歌枕や風景を研究する私にとってはかなりわかりやすく使いやすい図であります。「環境」-名所を歌枕的な「見かた」を通じて(しばしば実景とは関わりなく)知覚し、和歌の「表現」を産出する。和歌の「表現」の本歌取りの繰り返しで歌枕的な「見かた」が共同化、定型化されていき、その歌枕的「見かた」をもとに環境に働きかけるということが生じます。
「見かた」の共同化は、文字の誕生以前は小さな共同体におけるイメージに過ぎなかったものでありますが、文字によって共同体を超えた規模の集団に共有されるようになります。共同体の外部からの視線によって見出されたイメージが文字などの表現を通じて風景となる、と述べられております。日本における「風景」の誕生は、阿部さんによれば文芸の誕生する「万葉集」の時代であるのです。「風景」の発見についてはその定義によりますし諸説ありますが、この解釈も面白いと思います。個人的に、柄谷行人はじめ様々な風景論で見られる近代の西欧的風景の流入を「風景」の発見とする見方には、それ以前の日本の「名所」的、「歌枕」的風景は風景でないと言っているようで、少し違和感があります。


 卒業論文に使えそう、と思って読んでこの間のゼミ発表にも取り入れたのですが、色々指摘も受けて、現象学的地理学の見方はやはり一つの学説(しかも、地理学の中でも特殊な)にすぎず、特に建築学の研究室にいる私にとっては、ある程度相対化する必要があるなぁ、と痛感しております。普遍性と個別性の問題も中々難しいですし、ひとまず卒論の段階では(おそらく、修論でも)現在の対象地のケース・スタディにしておこうと思う次第。現象学的な議論を扱うには、まだまだ勉強不足です。
 とはいえ、現象学的地理学の議論は、それなりに私の思想的基盤となっているため、論文に使うことがないにしても勉強は続けたいと思います。
posted by みさと at 12:29| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(地理学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月11日

「旅」の誕生(倉本一宏)

 卒論で紀行文を扱うことから、「旅」や紀行文についての通史的な知識を入れたいと思って手にとったのがこの本。倉本さんは古代政治史が御専門ですが、この本は中古から近世に至る紀行文学を題材に書かれています。

 古代には、人々の「旅」は国司の着任・帰任や、調・庸などの租税の輸送や防人など兵役への従事のための「移動」に限られていました。中古の『伊勢物語』が「旅」に焦点を当てたはじめの文学作品とされ、後代の紀行文学にも強い影響を見せます。『土佐日記』や『更級日記』がこれに続きますが、この時代の紀行文はいずれも創作性の強いものであります。
 中世になると鎌倉に政治の中心が移り、双方の公使の往来や訴訟・陳情の移動、行商人も現れて交通量が増大し、宿が形成されて行きますが、ほとんどが目的を持った「移動」にとどまります。京・鎌倉往還の増加や文字や紙、仮名文学の普及によって「旅」そのものを描く紀行文学が増加して行きます。この時代の紀行文学は定めなき人生の縮図をも思わせ、自照的な性格を持ちます。『海道記』『とはずがたり』などが挙げられ、中古には三人称的視点であることが多かったのですが、一人称へと移り変わっていくのも特徴です。
近世になると伊勢参詣という契機もあって、武士階級や庶民も含めた遊学や物見遊山の「旅」がされるようになり、多くの紀行文学が描かれます。松尾芭蕉の『野ざらし紀行』、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のように多様な展開を見せます。

 『伊勢物語』の影響が強いと先述しましたが、興味深いのが、宇津の山に山伏と出会う紀行文がやけに多く、恐らくはそこに山伏がたむろしており、『伊勢物語』を再現して満ちゆく旅人を感動させようとしていたのだろうという推測です。景観を古の故事や文学になぞらえてそれらしく整備した名所は現代でも数しれませんが、中世にこのようなパフォーマンス的な名所の再現がなされていたというのが(事実であれば)中々驚きであります。

 こうした紀行文においては過去の文学が強く参照されますが、とりわけ松尾芭蕉は過去の文人の跡、歌枕を追って旅を行います。歌枕は、ある意味文学作品によって観念化された「場所」でありますが、芭蕉はその地を実際に歩き、実体化していくと同時に新たな名所を生み出していきました。このように、文学が旅を生み、その旅が新たな文学を生むという円環的な図式がここには見られます。
 なんとなく俳句に惹かれることが度々あったのですが(これまでは一茶や山頭火など)、この本を読んで一層関心が強まりました。また勉強しようと思います。

 軽い語り口の一般向けの本ですが、大変興味深く勉強になりました。
posted by みさと at 16:04| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(他人文科学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月08日

オロロ畑でつかまえて(荻原浩)

 妹に借りた作品。日本の中でも過疎に喘ぐ寒村・牛穴村の青年会と倒産寸前の広告会社が協力し、村おこしに取り組むという物語。こうしたユーモア小説?を読むのは三浦しおんの「神去なあなあ日常」以来で、奇しくもまた農村が舞台であります。

「六十五歳以上人口が三十パーセントを超える典型的な過疎の村」とあるのに、結構若いなぁ、と思ってしまいましたが、この本は2001年の小説。20年弱の月日は恐ろしいものだなんて思ってしまいます。今ふと調べれば、私の暮らす大阪郊外の小都市・柏原市の高齢化率が29.3%。決して田舎ではないわが町でも30%に迫ります。日本全体でも28.4%。どんどん老いていく国に改めて気づかされます。


 基本的に特徴の強い人物たちの軽妙なやりとりによって物語は進んでいきます。人物や物語性メインの作品で、寒村や広告会社という舞台背景は美的に描かれるというより、物語や人物たちを浮かび上がらせる小道具として巧妙に働いております。
 私はどちらかというと舞台背景を丁寧に描いた静的な作品をよく読むのですが、このダイナミックに動いていく物語も中々痛快で、読んでいて楽しかったです。たまにはこういうのも良いですね。
 この間、児童文学研究会で合評会を行った時も思ったのですが、僕はこういう作品は書いたことがないです。テンポの良い楽しいお話、一回挑戦してみようかな。
posted by みさと at 18:54| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(他国内文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月07日

国学史再考 のぞきからくり本居宣長(田中康二)

 卒業論文で歌枕「龍田」の風景史について取り組んでいるのですが、江戸時代における「龍田」への論考に国学者が多く登場することから、国学についての基礎知識を入れたいということでこの本を手に取りました。
 高校倫理で本のわずかに勉強したものの、そもそも国学とは何なのか、というところから怪しい初学者ではあったのですが、そうしたところの整理から始まり、基本的に本居宣長を中心とした目線で、契沖から21世紀の現代に至る300年をまとめてあります。初学者でも読みやすい選書でした。

 そもそも国学というのは国文学的な歌学と思想史・宗教学的な古道学が裏表となって結びついた学問であります。田中康二さんは国文学畑の人ですが、思想史的なところへも強く意識をされていますが、まだこれを読んだだけでは氷山の一角に触れただけというもどかしさも残ります。巨大で複雑な国学を把握するには、もっといろいろな人の本や論文を読む必要がありそう(都市史、風景史研究という自分の本分を忘れないようにしないと自戒もして、ですが)。六人部是香についての論文を手に取ったりもしています。
posted by みさと at 09:19| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(言語学/文学) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

人魚の嘆き 魔術師(谷崎潤一郎)

 中公文庫。谷崎の中でも、ややマイナーな初期短編2編が収録された作品です。
 前者は清朝の時代、財産と美貌、知性に恵まれ、この世の贅沢を尽くして飽き果てていたところ、人魚を連れた西洋人が現れるという物語。
 後者は、怪奇趣味を持った男が、恋人に誘われ、異形の見世物がはびこる公園の中に位置する美しい魔術師の見世物小屋を訪ねるお話。

 中井英夫氏の解説では、一種の美文調であまり現代の読者には響かないと中々辛辣な評価がされていますが、どちらも微妙な味わいのある作品。人魚や魔術師のもつ魔性の美しさは、確かに馴染みの浅い漢語が多く、後の谷崎作品の流麗さはないものの、その世界観に共通するところは多分にあります。
 前者は少し童話的な印象を受ける一方、後者はポオや乱歩のようなゴシック的怪奇小説の空気感があります。公園という空間が俗悪な人工物と人混みで溢れ、奇々怪々な見世物があちこちに乱舞する、ある種爛熟した醜悪な美しさを持ったものとして表現されているのも見どころです。公園というと、現在では爽やかなパブリック・スペースとしてのイメージの方が強いですが、しばしば寺社地などから割譲される経緯もあってテキ屋や見世物などが多く出される、俗な(しかし、もともと縁日などで聖と結びついていた)空間でもあります。ゴシック小説では森や古城、廃墟、墓場など暗く怪しいところを背景とする傾向がありますが、この俗悪な夜の公園の中、蝙蝠のような白楊樹の植栽がされた魔術師の小屋は、こうした舞台装置にぴったりであります。乱歩の『踊る一寸法師』を彷彿として、中々好きな作品です。
posted by みさと at 13:34| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月23日

爪と目(藤野可織)

 2013年の芥川賞受賞作。収録作品は『爪と目』『しょう子さんが忘れていること』『ちびっこ広場』です。
 表題作は当時3歳の「わたし」が父の不倫相手かつ再婚相手である「あなた」に語ると言う独特な形式を持った小説です。不穏な家庭の空気感が描かれるその語り口はやけに淡々としており、それがその空気感を一層強調しています。父とあなたは似た者同士であったという描写からはじまり、あなたが母をなぞろうとする描写へ繋がり、最後わたしとあなたの類似を仄めかす描写もあり、三重鏡の迷宮に閉じられる物語の構成は見事です。爪と目。感覚、とりわけ痛覚に繋がりやすい二つの身体器官ーーそれは、コンタクトレンズやマニキュアでしばしば覆われ再構成されるものですがーーを通じて、テレビの映像のように淡々と主観的かつ客観的に描かれる物語を読者の身体と強く結びつけ、遠い物語の中の物事が急に自らに襲いかかってくるような恐ろしさを感じます。

 後二編も中々不気味で良い作品。『しょう子さんが忘れていること』は年齢を意識して明かしていくところに叙述の妙があり、表題作と逆ではありますが、同様の不気味さを演出します。
 『ちびっこ広場』はより日常性の強い話ではありますが、子供を愛している描写が多くなされながらもやけに淡々とした語り口が不穏で、最後子供の迷信と同化する語り手がゾッとする怖さというより胸の底にしみてくる恐ろしさがあります。「ちびっこ広場」的な場所は私の子供の頃にもありましたが、子供たちの秩序が支配する世界であり、大人にとっては、ほとんど行く機会がなく、大樹が見せた箱庭のように、珍妙な(同時に不気味な)世界であります。結末の恐ろしさはこの異世界の論理に取り込まれる恐怖と言えるのかもしれません。友人の披露宴に向かう母も、子供にとっては異世界へ向かうとも受け取れる。そう、この小説は子供と親が違う世界の中に生きており、家庭というその接点で世界の(論理の)衝突、不調和が生じている様を描いた作品だということができると思います。
 
posted by みさと at 13:21| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(他国内文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月19日

赤毛のアン(L・M・モンゴメリ)

 『若草物語』に続いて、少女文学の名作と名高い児童文学を読みました。幼い頃読んでいた小説というと、私の場合圧倒的に江戸川乱歩の少年探偵シリーズ、中学生の頃は有栖川有栖や法月綸太郎のような新本格派を読み耽っていたミステリ少年で、こうした海外の名作児童文学というものはあまり読まずにここまできました。大学生になって初めて、アリスを手はじめにこうした小説に手を出していますが、たくさん素敵な物語に出会えています。

 この小説は「アン」という孤児に育ち、赤毛やソバカスと(当時の価値観からすれば)容姿に恵まれないながらもおしゃべりで明るい性格、優れた行動力と才覚、そして豊かな想像力で人生を切り開いて行く一人の少女に焦点をあてた物語。現実世界にいたら少し我の強い感じさえする彼女ですが、周囲の人たちに愛されるのも頷ける魅力があります。当時のカナダの規範はあまりわかりませんが、日本の伝統的な価値観からすると活発なアンは「少女」性を大いにもちながらもその規範を逸脱するところの大きい感じがします。ハイジや『若草物語』のジョーにもそうしたところがありますし、児童文学に登場するヒロインはしばしば「女の子」の規範を超えるところに一つの魅力があるのかもしれません。

 アンが豊かな感性を持って感受する風景も美しく、魅力的に描かれています。とりわけリンゴやサクラ、ハッカ、カバなどの植物の描写は鮮やかです。原題も『グリーン・ゲイブルズのアン』。アンの暮らす緑の破風の家をタイトルに取り込んでいます。アンが暮らすアボンリーの村は、苦難の幼少期を暮らしてきたアンにとって幸せな土地であったことと思います。
 なお、このアボンリーは、作者・モンゴメリが祖父母に養育されたキャベンディッシュがモデルとなっているそうです。カナダでは「アボンリーへの道」というテレビドラマが作られ、人気を博しているそうですが、これは『赤毛のアン』含むモンゴメリの複数の作品をもとにプリンス・エドワード島を舞台に描かれたドラマだとのこと。面白そうです
posted by みさと at 18:44| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(児童文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする