2020年04月04日

空間の生産(H.ルフェーブル )

 斎藤日出晴訳。 去年一年かけて読書会をした本です。

 ルフェーブル は哲学系の出身で都市社会学者として有名な方。この本は地理学、社会学、建築学など空間に関わる諸科学に強く影響を与えています。
 議論はかなり多岐に渡りますが、個人的に印象に残っているのはルフェーブル の歴史観。古代都市を「作品」であり使用価値を原理とするものと位置づけ、近代都市を「商品」であり交換価値を原理とするものとしています。自然や宗教という絶対的な価値観が支配する「絶対空間」から歴史を通じて市場と商品経済が支配する「抽象空間」へと至る過程を、経済史、精神分析など様々な分野の思索を援用して解説しています。

本書の中で最も有名なのは、空間認識の三つの方法概念だと思います。「空間的実践」は都市交通網や記念建造物など、実際の空間の創出であり、<知覚された空間>ということができます。「空間の表象」は言葉、記号によって規定されるものであり、都市計画学や地理学が扱う<思考される>空間であります。「表象の空間」は(映像や象徴を介してのこともありますが)直接的に<生きられる>空間であり、芸術家や生活者が司るものです。
この概念は名前はわかりにくいものの、空間認識の方法論、分類としてはかなりわかりやすく使いやすく思えます。

この本は入手も困難で、かなりの分量がある上に難解な一冊。そもそもの議論が散らかっていてわかりにくいと言われたり、訳が良くない、と言われたりすることも多いですが、空間を扱う国内外の諸科学に大きな影響力を持った本でもあります。読んでいてこれだけ難しいと思った本も初めてですし、通読した今も一体何割くらい理解できているのだろうと言った感じではありますが、色々物事を考えるときにルフェーブル の概念ーーとりわけ三つの空間認識が頭に浮かぶことも多く、一学生としても読んで大いに勉強になった気がします。
四月からは読書会の次の課題図書として、E.W.ソジャの『第三空間』を読みます。序文を読んで知ったのですが、ソジャのこの本も『空間の生産』に強い影響を受けてのもののようです。
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2020年04月01日

花見と桜 <日本的なるもの>再考(白幡洋三郎)

感染症の流行で中々し難い時節柄ですが、一応お花見シーズンということで手に取った新書。筆者は世に「桜」論は多くありますが、それらはあくまでテクストベースであり(しばしば国粋主義などの精神主義と結びつけられ)、修辞に蹂躙されていない、群衆と桜の関係を描いた「花見」論は見られないとして議論を始めます。
 筆者によると「花見」は「群桜」「飲食」「群集」の三要素を持って「花見」が成立します。この定義によると「花見」は海外に見られぬ日本独自の文化であります。
「花見」は中国への憧れから生じた貴族的・儀礼的な梅の花見の伝統と、豊作を祈る農村の「春山行き」の二つの文化の融合して生じたものだという理論は興味深いです。このため花見の名所は郊外に多く作られたと述べられています。具体的事例としては、徳川吉宗が飛鳥山、向島、御殿山に桜を植樹しましたが、これは鷹狩りのための野生鳥獣の保護のためであり、農民への慰撫策であり、都市民を消費者として惹きつける観光振興策でありました。筆者はこれらの公園を都市拡大に伴う郊外公園のさきがけとも位置付けています。

 色々と面白いトピックの多い一般書でありましたが、この本の議論の出発点となる三要素が個人的にはあまりすっきりしませんでした。イメージで恐縮なのですが、「群桜」「飲食」「群集」からなる「花見」は(筆者は都鄙折衷と述べていましたが)どちらかというと都市的なもので、あまり農村にはないものなのではないでしょうか。そもそも農村には「群桜」があるところは観光地をのぞいて少ないでしょうし、そもそも「群集」は成立しません。
私は都市郊外の旧農村に生まれましたが、個人的な経験としても、神社や駅の桜を観に行ったり写真を撮ったりした記憶はありますが、シートを敷いて飲食を伴う「花見」をしたことはありませんでした。大学に上がって上洛して初めて、こうした「花見」を経験しました。初めてで不思議な感覚を受けた記憶が残っています。
ちょっと「花見」というものを狭義に設定しすぎているんじゃないか、もっと多様な花見のあり方を議論しても良いのではないかな、と感じました。

筆者の白幡さんは京大農学部の造園学(現環境デザイン)教室出身。今でこそ生態学寄りのイメージが強いですが、かつては西田正憲さんとか小野健吉さんとか文化/歴史系の研究者も多く輩出しています。柴田先生のやっているような今の研究も面白いですが、私自身の研究が文化史的なところなので庭園史系が弱くなってきたのはちょっと寂しい気がします。
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2020年03月31日

自然のしくみがわかる地理学入門(水野一晴)

学年が上がると専門外の勉強をする機会がなくなりそうだな、と思って、割と毎年、定期的に関連分野の入門書を読んでいます。去年は社会学や都市社会学を読みましたし、今年は哲学を読んだり。学問って何でも関連しているから幅広い教養・基礎知識をつけておきたいと思う一方、時間は有限だからあまり散らかしすぎないようにも気をつけないとな、とも感じています。
水野先生は人文地理の強い京大の中では数少ない自然地理の先生。ポスドク時代は河合塾の人気教師でありましたが、京大院人間・環境学研究科(私の所属です)に就職し、アジアアフリカ研究所を経て現在は文学研究科の所属。名大の学部時代はワンゲルでかつ山岳会にも所属していたらしく、その経験はアフリカなど世界各地で調査にも生きている感じがします。。先生の人生を見ているとそのパワフルさに圧倒されます。

高校で地学も地理も履修していなかったため自然地理分野は全く疎いのですが、地形から気候、植生/土壌まで広くわかりやすく解説されています。地形・気候・植生はそれぞれ深く関わりあっていることが(当然ではありますが)強く意識されましたし、自分の歴史地理的な研究にもこうした自然地理的な事項は考慮に入れなければならないと痛感しました。
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2020年03月30日

コロナ禍の中、思うこと

昨今のご時世の下、私たちは言葉の渦の中で生きているのだということを強く感じます。実際に自らが、あるいは身近な人が感染するまで、私たちの殆どは感染症の脅威を視覚や聴覚から得られる「言葉」を通じて汲み取っています。その「言葉」は論文や新聞、ネット記事、あるいは人からの聞きづてなど様々であり、それぞれの信頼度、正確性も様々でありますが、それが「言葉」であることには変わりません。
どんなに遠いところのことでも、「言葉」という媒介を通すことで知ることができる。文明ってすごいなぁ、なんて素朴に思う一方で、私たちの生活のかなりの部分が、「言葉」という記号ーー非直接的な情報によって成り立っているということに不気味さをも感じます。

言葉は、それが記号という代替物である以上、その変換過程で、多かれ少なかれその指し示そうとするものとズレが生じる。そのことは忘れないようにしたいと思っています。

「コロナ」という言葉が、恐怖の記号となっている。記号を介して感じられる婉曲な恐怖は、不気味です。友人のバイト先のショッピングモールで感染者が出たとか、勉強会仲間の里が封鎖されそうだとか、不穏な知らせが日々入ってきます。恐怖が次第に歩み寄ってきて、急激に掴みかかってくるような妄想。多分、世界中のあらゆるところでこれが現実になっていっている。しかし、あくまで(私にとってですが)まだそれは記号です。過度に恐れず、適度に恐れて生きたいのものです。
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2020年03月22日

哲学用語図鑑(田中正人)

古代ギリシャから現代に至るまでの哲学・思想史をイラストで整理した本。学術書ではありませんがイラストが可愛い上にわかりやすく、西洋の思想史をざっくりと抑えるにはすごく良い本だと思います。教養レベルなら下手な入門書を読むよりも、この本を読むのが理解に良いかもしれない。
高校の倫理の勉強にも役立ちそうです(読んでおきたかった…!)。基礎勉強的にも使えるし、思想系の専門書を読んでいるときに辞書的にも使えるし、すごく便利。
続編や社会学版も出ています。手元においておきたいな…。
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2020年03月18日

西村幸夫 風景論ノート 景観法・町並み・再生(西村幸夫)

 かなり前ですが、先輩から院試勉強に良いよってオススメされて読みました。「風景論」と謳われると、どちらかというと人文主義的、現象学的な「風景」についての論考を想像しますが、この本の中身は、客体として近代科学・都市計画の把握対象となった「景観」についての論考集となっております。

 大きく分けて三部建の構成となっており、2004年に制定された景観法を踏まえての章が第一部、主に文化的景観への注目から町並み保全型のまちづくりを考えるのが第二部、コモンズの概念を軸に都市空間の再生を考えるのが第三部であります。
 印象に残っているのは、都市空間をは居住・経済・統治の三つの原理によって成立し、変容するという理論であります。。居住の原理は民家の間口、奥行きなど住人の生活を反映していると言うもの。経済の原理は商業・資本主義の仕組みで、都心のオフィス街や容積率いっぱいに建てられたマンションなどが例に挙げられます。統治の原理は政治の権力・規律による仕組みで、長安などの都城やルーブル宮などの王宮前広場、あるいは都市計画などがあります。三つの原理は互いに重なり、あるいは相克しつつ都市空間を織り成します。
 西村さん自身都市計画がご専門ということもあり、制度的な話が中心で、「景観」があくまでコントロールする対象となっているという印象を強く受けました。私の好みは、「風景」が人々といかに関わり合い、いかにして私たちの前に現れてくるのか、という認識論のため、読みながら少しじれったくもありましたが、いかなるところに価値があるかを考えることと、いかにして価値を保全していくかということは不可分であるとも感じます。
posted by みさと at 10:23| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月17日

死者の書(折口信夫)

「した した した」という水音と共に闇の中に目覚めた滋賀津彦(大津皇子)と藤原豊茂の娘の魂の交歓を描いた小説。大和当麻寺の中将姫伝説を題材にとっています。
折口信夫は「まれびと」の概念で知られる民俗学者でありますが、国語国文学者でもありました。この小説の時代設定は古代であり、文章も現代の口語調でありながら古語が多数取り入れられています。舞台設定の詳細さにも筆者の古代研究がよく感じられます。
滋賀津彦が二上山に葬られていること、郎女が当麻行、、また二上山の谷間から仏が現れてくる様子などを考えると、大和の西方にあたる二上山(また、その向こうにある河内)は葬送の地、彼岸的な場所として描かれているようにも思えます。
この作品で魅力を発しているのは「した した した」「こう こう こう」「つた つた つた」と言ったオノマトペ。死霊を巡って不気味な感覚を催しそうなものの、不穏な感じはなく、土俗的な幻想性ともいうべき不思議な感覚があります。この感覚が、作品全体の魅力的な空気感を作り出している気がします。
私が読んだのは角川ソフィア文庫から出ているものですが、かなり充実した注釈がついているのが特徴です。普通に読む分には飛ばしたほうがわかり良いかもしれませんが、精読するにあたっては良い手引きとなりそうです。
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2020年03月12日

新・建築入門ーー思想と歴史(隈研吾)

国立競技場やM2ビルなどの設計で知られる隈研吾による建築論です。アリストテレスからカント、デリダまで新旧の哲学を踏まえつつ、西洋建築史を中心に建築の諸相を概観しています。内容は省略をしますが、主客の話、構築の話、建築を扱った哲学書だと頻出のテーマが中心です。
建築史か哲学史、どちらかの基礎知識がないとちょっと難しいかもしれませんが、哲学系の人が建築史の入門に読むには良いかも。私は逆に哲学史も勉強したいな、という刺激を受けました。
 隈研吾といい森田慶一といい、思想と設計どちらにも関わる建築家(建築学者)さんって結構いらっしゃいますが、それに触れる度に多才さに驚きます。思惟を何らかの形で表現できる力を持っているって、何だか羨ましく感じます。
posted by みさと at 12:14| 奈良 ☀| Comment(0) | 読書(建築/土木,工学系) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月04日

伊豆の踊り子(川端康成)

新潮文庫、収録作品は『伊豆の踊り子』『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』です。三月末に伊豆へ旅行に行こうと思って読みました。
『伊豆の踊り子』は伊豆を一人旅する学生と旅芸人との交歓の物語。この物語では、片時の一人旅を楽しむ主人公と旅を日常に生きる旅芸人、そして旅人を受け入れながら在地の日常を生きる宿屋や茶屋などの伊豆の住人という三者が交わる様が美しく、少し悲しく描かれています。旅芸人は華やかでありながらも低い身分とみなされる存在。主人公の学生は旧制高校生という上流階級でありながら「孤児根性」を抱えているという複雑さも持ち合わせています。
天城の茶店に雨宿りをするとき、茶店の奥の生活空間に「水死人のように全身蒼ぶくれ」の中風で不随の爺さんが炉端にあぐらをかいているシーン。グロテスクなまでの生活感が、旅の非日常の世界の裏には当地の、(旅人にとっては異界の)日常のあることを強烈に感じさせます。
こうしたやや暗い物語の舞台設定を持ちながらも、作品の中には爽やかな美しさが満ちています。
「仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一杯に伸び上がる程に子供なんだ」(p20-21)
「私の足もとの寝床で、踊子が真赤になりながら両の掌ではたと顔を抑えてしまった。彼女は中の娘と一つの床に寝ていた。昨夜の濃い化粧が残っていた。唇と眦の紅が少しにじんでいた。この情緒的な姿が私の胸を染めた。彼女は眩しそうにくるりと寝返りして、掌で顔を隠したまま布団を辷り出ると、廊下に坐り〜」(p24)
「そして少年の学生マントの中にもぐり込んだ。私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった(中略)何もかもが一つに融け合って感じられた。
 船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがポロポロ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」(p45)
 主人公も踊子も初々しく爽やかで、暗さを孕んでいながらも清々しいまでの美しさであります。


「彼女等は獣のように、白い裸で這い廻っていた。
 脂肪の円みで鈍い裸達ーーほの暗い湯気の底に膝頭で這う胴は、ぬるぬる粘っこい獣の姿だった。肩の肉だけが、野良仕事のように逞しく動いている。そして、黒髪の色の人間らしさがーー全く高貴な悲しみの滴りのように、なんという鮮やかな人間らしさだ」(p48)
『温泉宿』は、美しいようなグロテスクな、心惹かれる冒頭で始まります。温泉宿の女中や曖昧宿の娼婦達の生きていく様を描いた作品で、行楽地の下層階級を描いているという点で『伊豆の踊り子』とも共通点があります。女性達の生活は悲しさとたくましさを感じさせますが、中でも印象に残ったのが、お清という酌婦。病に臥せりながらも、曖昧宿や村の子供達に懐かれ、遊ぶことを楽しみに「土着」じみて生きています。彼女の癖は可愛がってやった子供の群れが、棺の後ろに長々と並んで山の墓へと登っていくという自分の葬式の幻を思い描くこと。しかし、お清は子供達の寝静まった夜にこっそりと葬られることになります。清く儚く描かれている様が、やけに印象に残っています。


『抒情歌』は康成の死生観を描いた随筆的小説として広く知られています。霊感を持つ「私」は「私」を捨てた後に死んでしまった「あなた」に語りかけるというあらすじ。「霊の国からあなたの恋のあかしを聞きましたより、冥土や来世であなたの恋人となりますより、あなたも私もが紅梅か夾竹桃の花となりまして、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらうことが、遥かに美しいと思われます。そういたしますれば、悲しい人間の習わしにならって、こんな風に死人にものいいかけることもありますまいに」(p140)という文章が何とも美しいです。


『禽獣』も印象的な作品。主人公は動物の愛玩を慰めとしながらもその眼差しにはある種淡々とした冷酷さ、空虚さが感じられます。
「この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩というものの実感が分らぬげに見えた。(中略)少しきまり悪そうにはにかみながら、しかし大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい」(p157)
この文章は主人公が愛した女性と重ねたものでありますが、この眼差しはどこか主人公自身にも通底するように感じます。何だか不思議な読後感のある作品でした。
posted by みさと at 13:32| 奈良 | Comment(0) | 読書(近代文学作品) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月28日

鉄道業界大研究(二宮護)

来年から就職活動をしなければならない、という義務感でキャリアサポートルームから借りた本。鉄道業界の現状、歴史、近年の動向、各社の特徴などをざっくりとまとめた本。
鉄道会社は沿線の開発や観光振興に関わっているため、歴史の項を面白く読みました。東急のもとが田園都市社とは知らなかった…。
最近高校の同期が就職して行くのを見て早く社会に出たい、という思いも強いのですが、卒論が楽しかったということもあって同時にアカデミアに残ってずっと研究を続けたい、という思いも同時に強くなってきて、どうしたものか、と考えています。。やっぱり博士課程に進学すると、高校や大学を出て新卒採用される、という社会の王道の生き方ができなくなりますし、今のところ修士卒で就職に傾いてはいますが、、、。
posted by みさと at 17:48| 奈良 ☁| Comment(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする